編集しなければいけない映像について考えていると
なぜか文字が欲しくなった。
そこで部屋に散乱している適当な本を手に取り、指の成り行き任せにページを開いた。
「フィルモアの頭は黄金に関する観念で埋まっていた」という行から始めて、「一軍隊が四六日と三七時間働いてもフランス銀行の地下に沈んでいる黄金全部を勘定するにはまだ足りないんだ」と進めた。
そして「これこそドイツ最良の書と呼んだ書物である。それにはこう書かれていた。」
「人はますます利口になり、抜け目がなくなるであろう。だが、よくはならず、幸福にもならず、行動においてもたくましくはならない━━ 少なくともいくつかの時代にわたって。」
というところまで読んで書を閉じた。
そしてまた別の一冊を漁り、三好達治という人が詩を書いていたことを「本をつんだ小舟−宮本輝」の中に見つけ、彼の翻訳した「惡の華」という本が我が家にあったはずだと書架へ戻った。
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
結局「悪の華」はどこかへ雲隠れしていて見当たらなかったので座り慣れた椅子に腰を落ち着けて三好達治をもう一度繰り返した。
文字というのは厄介で扱い辛く、「バカ、お前は」という文字もその前後の文脈によっては愛情を持って発せられた言葉である場合があるし、それと反して単純に貶しただけのこともある。
さらに厄介なことにこの文字という記号の羅列は、そこに表象された国語を理解するだけでは全てを知ることは出来なくて、その記号の裏側や行間に挟み込まれた文字なき発言を読み取らなければならないこともある。
つまり、それぞれの国で教えられた言語以外に、この暗号と言っても良い発信者からの信号を受信するためには人生の苦汁を嘗める必要があったり、血流が変わるような激情や恐怖や喜び悲しみを知らなければならない。
つまり、ほとんど解読不可能に思われる暗号の山が図書館や書店には並んでいる。
それは動作として単純に一ページ開いただけでは見つからない宝や毒の泉で、そこには冒険者を待つ山間の静けさがある。そしてある一定の採掘者への足がかりを随所に内包しながら何世紀にも渡って存在し続けている。
突然話は変わりますけど、水深五メートルまで潜れる小さなカメラを持っていました。
過去形にしたのは先日海に入れたら何処かから漏水して壊れてしまったからです。
少なくとも四年くらい使い続けた愛機。
しかしながらどうしても直ぐに使う予定が入っていたので、盛大な葬儀も行わず次の一機を探しに出かけました。
紆余曲折があった末に、我が冒険の同伴者としてふさわしいと思われる相棒を見つけました。
『Gopro Hero5』
どんな人間ひとりにさえ映画や小説より面白い人生の断片、垣間見た奇跡的な瞬間の欠片がある。普段の忙しい生活の中ですっかり忘れてしまっているこれらの一コマを本や映画というのは、同意によって思い起こさせてくれるという点でどれも芸術的で素晴らしく、人間に満ちている。
そう思う。
ただただそう思う。
エアコンの室外機や冷蔵庫の唸り声に何かの曲を思い出したり、歩道と車道をなか違う鎖を跨ごうとして引っかかり、盛大にすっ転んだ目の前の他人の出来事が体内の映像倉庫に溜まっていく。
または、催し物の帰り道で小さな子供が不用意に手を離してしまった風船が空を登って行く姿、ゴミ収集車が片方の手袋だけを落としたまま走り去ってしまった街角、気分を悪くして降りた駅で誰かのかけてくれた優しい言葉というそれぞれの断片が。
映画や小説が、タンスから出てきたアルバムの写真が、太古の洞窟壁画が人間の過ぎてしまったひとときを思い出させる。
それぞれの方法で記憶されたイメージを時間や個体を跨いで共有する。
だから私たちは見知らぬ他人の古い映像や一文に鳥肌を立てるのではないだろうか。
そうやって、今度は十メートル潜れる「Gopro」というカメラや少し高額な古本を購入したことを納得させて今日も生きています。
*絵と本文はほとんど関係ありません。
イラスト:「巨大な空飛ぶ蛸に連れて行かれる買い物帰りのエコ・バッグを持った二人」
引用
1:「北回帰線」H.Miller 新潮文庫
2:「本をつんだ小舟」宮本輝 文藝春秋 (三好達治の詩)