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急に冷えたせいか、少し違和感のある鼻と喉に昔ながらの蚊取り線香がむず痒い。
「やっぱりキンチョーでなければダメね。残った灰の姿がいいもの。」
同居する家族が旅行や用事で皆出払ってしまい、一人で留守番をすることになった祖母との二日間を過ごすため、遅れたお盆の田舎へ向かった。
出入り口のマックシェイク
毎年親に連れられて帰省していた少年の頃。帰りはお爺ちゃんやお婆ちゃんとの別れが寂しくて毎回泣きながら車窓をいつまでも眺めていた。
改札の前にマクドナルドのあるローカル線で祖母が一人で待つ家を目指す。
親戚達がすでに出発した後の夕方に到着。数時間という短い間なら二人きりで過ごしたことがあるけれど、お爺ちゃんが亡くなった今、泊りがけで祖母と二人で過ごすのは初めてのことだった。
「キンチョウは残った灰の姿がいい」そういって火を付けた祖母との夕食は大宮の駅ナカで購入してきたお弁当だ。温めることを決めている祖母がレンジでチンをし、蓋の少し変形したお魚弁当を二人で突っつく。
室内の鉢植えに見たことのない花が咲いているなと思ったら、細い支柱の先に「夜危ないから」という理由で発泡スチロールを千切って刺した祖母の一輪だった。
「最初に買った家電製品はね、掃除機だったと思うよ。冷蔵庫はもっと後だし、炊飯器なんてずぅーと先だった。」
冷蔵庫が来る前、お婆ちゃんが「じゃぁ」と呼ぶ製品があって、それは氷を底に入れて蓋をして保冷する器具だったらしい。形としては炊飯ジャーを大きくしたようなものだったというので案外ジャーというのが正式名なのかもしれない。
「中に入れる氷は毎朝氷屋さんのお兄ちゃんが配達してくれてね」
中には野菜やら牛乳やらを入れ、その氷は一日保つのだそう。
大宮の駅ナカで購入してきたお魚弁当は西京漬とシャケの切り身の二種類。
「カマは脂があって美味しいよねぇ」
言葉とは裏腹にシャケをこちらによこし、自分は西京漬の弁当を選んだ祖母。実はシャケはカマではない部位なのだけれどもそこは黙っておく。
「線路だけが残っていた」
数年前に親族が連れて行ってくれた大阪旅行の話になり、昔住んでいた家を見にいったけれど既になく、街並みも変わっていたので探すのが大変だったという。唯一変わらずに残っていたのは阪急電鉄の線路と踏切で、それが目印になった。
会話の流れから戦後の焼け野原の話になり、おばあちゃんは東京に住んでいた当時を語りだした。
「いっときね浅草に住んでいたんだけど、手狭になったときにお父さんが文京区へ越したのねぇ。あのまま浅草にいたら怖い思いをしただろうね。あの辺は焼けたからね」
「姉は錦糸町に住んでいて、まだ生まれて三ヶ月の子供がいたの。あの辺も空襲がひどかったから全部焼けたんだけれど、近所に井戸があったのね。その井戸の水を皆で交互に掛け合って助かった。あの井戸がなかったら姉も子も助からなかったろうっていってたよ。」
おばあちゃんは自分のお姉さんを探しに錦糸町へ行って見たけれど、街が全てやられているのを目撃し、姉も見つけられなかった。これはダメだろうみんな亡くなってしまったと思って家に帰ったそうだ。
ところが姉は生後三ヶ月の子を含め、水を浴びて生き延び大空襲から三日後に妹(おばあちゃん)の家へ現れた。
錦糸町から子供を背負って歩き、ボロになった姿を不憫に思ったのか噺家だった人が道中で声を掛けてくれ二日ほど面倒をみてくれた。そのお宅で休息と食事を得て三日後におばあちゃんの所へ辿りついた。
「だから姉はその噺家さんには恩がある。命の恩人」
姉も既に亡くなっているけれど、噺家さんは1952年に三原山に航空機が墜落した事故で早くに逝去されたそう。
ネットで調べたところ弁士・漫談家大辻司郎という方で、「てにおは」を抜いた喋りを発明した人物だそうだ。事故は長崎平和博への旅中で遭遇したというから人生とはなんとも冷たい用意をするものだ。
大辻司郎さん参考サイト『歴史が眠る多磨霊園』
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ootsuji_s.html
世界の尺度
「少しお庭に水を撒いてもらおうか」
「アイスクリームを買いそびれてしまったから、出してやれなくって悪いねぇ」
腰が悪くなってからは長く歩けなくなり、誰かが車を出してくれないと買い物や遠出することも難しくなってきた祖母。幼少期は行動範囲が限られている分世界を広く感じるけれど、祖母もまた今、こうして出かけられる範囲が狭まり他所を遠く広く感じているのだろうか。
「戦後はねぇ、お父さんが冷蔵の会社に勤めていたから幾分食べられたのね」
おばあちゃんのお父さんは現存する冷蔵会社で働いていたらしい。そこは戦火を逃れ無事だったので氷があった。そして、その氷を料亭が欲しがった。お父さんが氷を持っていくと砂糖を貰うことができた。
「その砂糖を野菜に交換して食べたのよ」
おばあちゃんは、大空襲の前に姉の家へ寄っていた。生まれて三ヶ月の子供を見に行ったのかもしれない。姉は折角だから泊まっていけばと妹に尋ねたそうだ。それでもおばあちゃんは自分の家へ帰った。
「もしあの時泊まることにして、家へ帰っていなかったらどうなっていたかは分からないね。人生には分岐がいくつもあるから不思議だね」
今、おばあちゃんは電話を掛けている。孫へ「すき焼き」をご馳走しようと予約した店舗へ確認の電話。別の孫がもう一人来られることになって人数が増えるのだけれど大丈夫か確認するそうだ。最初、予約しているのに話が伝わらないと思ったら別の支店へ電話していたらしく、掛け直していまは二度目のやりとり。
この四十年、おばあちゃんは日記とは別に観劇や電化製品などを購入した日付の索引ノートをつけている。タグの付いたこのノートがまた面白いのだけれど、それについてはいつか別の時に書こうと思う。
静かなノートパソコンの向こう、冷蔵庫が自動で氷を落とす音が暑さの落ち着いた祖母の部屋に届いた。
2018.08.xx