暑いからといって肩を出して眠ると寒く、かといって全身を布団で覆うと暑苦しいので掛け布団を横にして寝ています。
爪先と顔が出ている。
ノートを買いました。
紙もの結構好きです。一般にいう大学ノートというのは余り好みではありませんが。あれは、横に均一な線が全ページに渡って引かれていてるのを目にするだけで「ウゲっ」と思ってしまいます。
なので、無地か薄い格子状(方眼)のノートを選びます。
「格子はいいのか」
いいんです。縦線だけとか、横線だけだと先行きを決められているような気がしてしまいますが、格子にはそれがない。
格子だと横に行っても縦に行っても許される気がするのです。
左の事務所では左寄りの話が求められ、右寄りでは右の話が。それで中道の事務所へ行くとどちらの話もまぁある程度は許される、というと例えとしては少し安易かもしれませんが。
ともかく、格子はどちらに進もうと味方がいるという雰囲気がある。
で、
無地はというと、これはめっぽう自由なんだけれども、大自然のような恐ろしさもある。アラスカの海上とかモロッコ南部の砂漠、オーストラリアの荒野に一人取り残されたような自由。
「どっちに行ったっていいけど、あんた、帰れんの」
そう突きつけられている感が無地の両面に広がっている。最初に筆を下ろす(といってもボールペンやインクペンなんだけど)その場所や図柄、文字の大きさ、書き付ける内容によってノートの行く末が決まる。
けれど、一旦書き始めてしまえば、仮にノートを閉じたとしても過去の記述が行き先案内板となって進むべき方角をある程度指し示してくれる。もちろんそれは到達点の目印ではないので、砂漠のオアシスのように前方の目標になるわけではない。
ただ時々振り返ると「ああ、あそこに草生えてたな」ということが思い出され、「この先もきっと何かしら生えているだろう」という無責任な安心感を与えてくれるに過ぎないのですが。
しかし、その案内板にはこう書かれているはずです。
「迷える!道のあるあいだは」
実のところただ、ノートを買っただけなんです。
走り書きだとか、初めて聞いた音楽や本の題名だとかを書き付けておくだけの紙です。メモです。ほんとにただのメモなんで、書いて一ヶ月もすれば何を書いてあるのか思い出せなくなることも多々あります。
例えばある紙には「中国人の塩と黄金」と書き付けられたメモがありますが、今となってはなぜそれを書いたのか覚えていません。若干金儲けの匂いがしないでもありませんが、今更採掘できるほど当初の記憶がないのです。
別のページには
「ジャムにカビが生えた」
だからなんなのよ。です。
さらに先へ進むと、
「よかった、一口残ってた」とだけ書いてあります。いったい何が残っていたのか逆に気になります。
まぁ、そんなようなノートなんです。
本当はモレスキン社のノートが欲しいです。書き易いし紙質も好きです。それに、オーストラリアの先住民をルポタージュした「ソングライン」や「パタゴニア」「どうして僕はこんな所に」といった名著を記したブルース・チャトウィンもこのノートを愛用していました。それを知った時は嬉しくなったものです。彼はモレスキンが一度倒産したときに、手に入らなくなっては困ると、文房具店でまとめ買いしておくほどこのノートが好きでした。
そして、旅先でモレスキンのノートへ文や取材メモを書き付け素晴らしい本を生んだのです。
その本はどれも大好きでほぼ全部読んだ。当時は高過ぎて買えなかったから図書館で借りて読んだ。だから思い出してみると家には一冊もチャトウィンの本がない。これは寂しいことだ。
そうだ、せめてノートはモレスキンを買うべきだ。
勇んで文房具店へ行き、ノートの棚を眺める。もちろんモレスキンがある。
そして、モレスキンは今日も高い。
下の段にはツバメノートがある。ツバメノート株式会社謹製。MADE IN JAPAN。
そして、ツバメノートは今日も安い。
紙質も決して悪くない。燕、嫌いじゃないし。
そして、ツバメノートがまた一冊増える。
ということで我が家にはブルース・チャトウィンの本もなければモレスキンもないのだ。(本当は空港の両替で余った外貨コインで買ったメモ帳を持っています。)
あぁ、モレスキン、モレスキーネよ。君が旅先で倒れていたなら私は喜んで君を救い上げるだろうに。
よし、来月こそはモレスキンを買うぞ。いや、燕が南へ旅立つころまでには・・