対価万国か

日記:11/06/2018

トタンの音楽を聴いている。

今朝の目覚め。お天気雨から始まり、今は降ったり止んだりしている。

それで、一時雨が降るのを止めたときにトタンに滴る雨粒の音が良く聴こえる。

 

さて、どうしよう。

フリーマーケットの話を書こうか。

 

フリマは人間観察

 

 

以前、明治の漢字だらけの紙ものを出品していたときのこと。

いかにも興味のありそうなおじさんたちが、「いいねぇ」なんて声に出しながらぺらぺらとめくり、箱に戻し去っていった。

同じようなタイプが何名か過ぎ去った後、一人の学生服を来た青年がそれを手に取った。そして、無言で真剣に二、三ページめくったあとに「これは幾らですか?」と言った。決めてあった価格を言うと、即決で「買います」の返事が返ってきた。

手書きで漢字だらけ。現代人の多くは読むことさえ困難なその手製本の一冊をその高校生は即決し買っていった。

いやもしかしたら中学生だったかもしれない。記憶は曖昧だから。

 

別の時、木箱のなかにごちゃっと色々なものを入れていた。

その中からやはり中学か高校らしき学生がSEIKOの古いストップウォッチを見つけて値段を聞いてきた。またもや即決で「ください」と言われた。

もう一つ動かないものがあったので「これもいるかい」というと「欲しいです」というのであげた・・

気がする。

もしかしたら過去の記憶を美談に差し替える思い出媚薬が作用しているかもしれない。そうだとしたら、二個売った可能性もある。

 

記憶は曖昧だから。

 

フリマだし若人が喜んで帰っていく姿は良いものなので、高くしてはいないと信じている。

 

お金と土地というのは本当に良く分からない。

 

この国の多くの人と同じように、生まれたときから「土地は売買するもの」とされている場所で育った。

二軒隣の空き地は家もないし、人も滅多に来ないのに誰かの持ち物ではあった。

子供だったので、そこへ勝手に生えてきた草と戯れ、土を掘ったりもした。

 

民族によっては土地というものは売ったり買ったりする類のものではなく、そもそも大地を所有するという概念がない人々もいる(いた)と聞く。

 

幸いながら、今はまだ、我々は空気を売り買いしていない。

 

それでも可能性はある。

「ちょっとアタシの空気勝手に吸わないでよ!」

 

お金を払えば吸わせてくれるのかい。

 

 

昔、四万十川の畔で泊まったことがある。

 

夕方、近所の人に水道を貸りた。

「ここの辺りは水道タダだから」といって旦那さんは自由に使いなと蛇口を指差してくれた。

冷たくて美味しい水が沢山流れてきた。

お金は発生しなかった。むしろ、晩酌のあてにする予定だったらしいお刺身を持たせてくれた。その味は忘れてしまったが、水道から脈々と溢れ出す水のことはよく覚えている。

 

タダで何かをしてもらったり、

タダで何かをしてあげたり、

するということは、

お金の信用を落とす行為なのだろう。

お金というのは近しい言語や文化、約束の守り方を共有する人間のあいだにある、暗黙の信用で成り立っているわけだから。

 

旅先へ日本の古いお金を持っていった。

 

モロッコ人の古物商にそれを見せた。

ただでさえ見たことのない遠いアジアの国のお金を凝視して「これはいくらなんだ」と聞く。一ドルの十分の一以下だと答える。

 

「古いのか」

「ああ、とても古い」

「使えるのか」

「今は一般には使っていない」

「・・・」

「・・・」

「くれ」

「じゃあ、オレにもなんかくれ」

「そこから選べ」

「どれでもいいのか」

「ああ、全部くれるなら何個でも持っていけ」

「そうか」

 

結局、古い日本のお金はモロッコ人の壊れたような蛇口と真鍮の灰皿に交換された。

 

「また来るか」

「あぁ、またいつかな」

「そうか、その時は寄れ」

「ああ分かった、寄る」

 

そういった思い出は金額にするといったい幾らに換算できるのだろうか。

向こうの紙幣に換算するのかそれともこちら側のか。それともお互いが信用している第三国の紙か。

 

 

雨の日。

今日も無料の音楽が空から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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