日記:11/08/2018
一日二分の尺を二ヶ月撮影して、総合で二時間の作品を作っている話を聞いた。
大きな部隊で人数も多いという。
個人だと、一日二秒製作し、一ヶ月で一分の作品が完成するといったところか。
毎日二秒印象を撮り続け、一ヶ月分を繋げて観る。やってみようか。
毎日は難しいから一日で一週間分、十四秒を撮影してしまわないだろうか。そんな心配は事欠かない。
海の中を毎日二秒撮影したって面白いだろう。
冬は寒い。
泳がなくても寒い。
手も冷たい。
棒にカメラを括り付けて録画するという手もある。
ただ、海から二分というような立地でない限り、毎日通うのはかなり億劫だ。せめて自転車で五分の距離でないと。
それにしたって毎日同じ道を往復すると飽きてしまう可能性もあるし、もしあなたがイスラム教なら「同じ道を通らないようにせよ」という教えがあった気がする。
それなら表へ出ず、家の扉からワンカットを撮影した方が良さそうだ。
毎日誰かが訪ねてくれる家なら楽だろう。
戸を開ける度に二秒回せばいい。
しかし、人の来ない家はどうする。
水道の検針と郵便配達人以外は木戸を叩かない家もある。
いや、そもそも検針も郵便配達人も戸を叩かない。
開かずの扉だ。
完成した映像には微動だにしない扉だけが映っている。
天気により多少明暗が変わる。
あまり面白くなくなってくる。
何もせず布団に包まっている方が有益な場合もあります。たった二秒でさえ。
しかし、我々は知っているはずです。何億秒という人生の中で、知らずに過ごしたたったの一秒がその先の未来を変えることを。
先祖のその一秒の閃きや実験が、人間を大気圏外へ運び、カリカリのドッグフードから人よりも高価な餌を食す美食犬を育て、小銭を電子マネーへ変身させてきたことを。
つまり、今日の朝一秒をどのように過ごしたか。
つまり、寝起きにどんな顔しているのかを撮影すると良いのだろう。
いや、今日に限ってはもう一秒だけ寝ていよう。
そうやって寝過ごした朝は、撮影などできないではないか。
大変なことだ。毎日というのは。