映画『サンセット』で再発進

忘れることのない映画

 

忘れることのない映画が人生に何本あるだろう。

それほど定期的に映画を観ているわけではないので、両手、いや片手で十分かもしれない。

<忘れられない>とは、その日以降何かが自分の中で変わるか、または新たに始まったことを意味する。

 

『サンセット』

 

そんな忘れ得ぬ映画が一つ追加された。

邦題は『サンセット』というらしいけれど、その内容や意思の深さは使い慣れたカタカナのサンセットでは物足りなく、意味はおろか類似した発音さえ思いつかない原題の『Napszállta』が相応しいように思う。

 

『Napszállta』

監督は『サミーの息子』のLászló Nemes  (ネッメス・ラーズロー)

 

この映画のことを書こうとすると、とても今ある空き時間では無理なので後日にあらためる。

ただ一つだけ書いておくとすれば、観客を信用し、分からないこと、混乱していることを「そうだよね」と描いた。

人は何故戦争が始まるのか説明できないと思う。そこにはいくつもの面が重なり、それらは見る角度を変えれば全く異なる事実として受け取られるものだから。つまり、椅子を隣へ移せば別の事実や疑い、あるいは光と影が目に入るわけで、一人の人間の一生でその多面を理解するのは難しい。

唯一想像力が、それを僅かに助ける。

 

ラーズロー監督は分からないものを敢えて分からないままにしておくことで、観る側に多くを問い、それに成功した。

「わかる?分からないよね?」

それまで正義や勇気だと思われていたものが、ある境界を境に不義や愚かさに変わる。

まるで、主人公が扉やベールという境界線をくぐった瞬間にその光の出所のさす陰影で「見えるように」或いは「見えないように」なることに合わせて。

 

つまり『Napszállta』(サンセット)というこの映画は、分からないものを観せることで、観客が何を受け取り、帰路という死ぬまで続く小路の中で何を再生していくかの、観る側それぞれのドキュメントであると思う。

 

『ベルリン物語』

 

『ベルリン物語』橋口譲二著  情報センター(昭和六十年発行)を読み終えた。

本当は当初、そのことを書くつもりだったのに映画の話を綴ってしまった。

この本も素晴らしかった。

現実の壁という目に見える境界を持っていた東西ドイツで見聞した八十年代のベルリン。

そこに住む名もなき人間たちの生々しい生活を通して、真実の壁とは何かを伝える。

 

<さかいめ>

 

いつかこの二つの映画と本が提示する境界についてもっと書きたい。

なぜならば、”境界”は普段我々が生活する世界のどこにでもあり、その一本の線、一回の視線を固定することよって、恐ろしく物事の理解を隔たらせてしまう。そのことを自分が余りにも早く忘れてしまうからに他ならない。

 

今日はここまで。

 

 

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