キャンティっていう名の布団の上で

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ウィンブルドンのテニスを見るでもなく流している。ジョコビッチという名に聞き覚えがある。最初はニュースのはずだったけど、いつのまにかテニスになっていた。新宿。都庁の間近に見えるホテル。その九階の部屋でこれを書いている。顔をあげれば、ところどころ禿げ上がった芝生の上をジョコビッチが走り回っている。

ベッドの上に剥き甘栗の袋、照明操作盤の横に赤ワインのミニボトル。紙コップひとつ。ときどき隣室からゴンという物音。シワの多いカーテン。撮影の仕事で数日間滞在しているのだが、機器の充電やらなんやらでモノの溢れたホテルの部屋。将棋盤ほどしかない机の上と窓際のカウンターは既に置き場がない。床で飲むわけにもいかないので、(ホテルの一室でひとりそんなことをしたらアメリカ文学の一種みたいにさびしいだろう)しかたなくベッドの上にパソコンを開き飲んでいる。

本当は、少しはなれた場所へ飲みに行くかと考えもしたけれど、筋肉疲労と夕食が遅かったこともあり諦めた。画面ではジョコビッチが首をふっている。テニス放送では沈黙が定期的に訪れる。押し黙り、彼人がサーブを打つ瞬間を皆で待つ。静寂。ラケットが球を弾き飛ばす音か、彼らの雄叫びがその沈黙を破る。

「ジョコビッチはウィンブルドン七回優勝の記録があります」

東京へは同じ地元に居を構える先輩の車で向かった。彼の運転で横須賀から高速道で東京へ。彼は何十年もここで撮影している人なので安心して助手席に座っていた。横浜横須賀道路から首都高湾岸線へ移り、すいすいと走った。先輩は車の少ない走りやすい湾岸線になってから調子があがったようで、音楽をかけはじめた。アンビエントのようなニューエイジのような曲に無言で気分を高揚させながら運転する先輩。しばらく調子よく走っていたが、突然「あれ、どこだっけ?」と急に話をふってくる。こちらは道のりも聞いていないので「どうやっていくつもりですか?」と聞き返す。「新宿とか外苑なんだけど、ここどこだ」さっきまで気持ちよく走っていた先輩はフロントガラスに顔を近付けている。左手の方角ををみながら「あー、お台場にきてますね、ここは」と答える。

「ジョコビッチにブレイク」とアナウンサー

なんだかんだして一度下道に降り、再び高速に乗った先輩。

「マッチポイントジョコビッチ」というアナウンサー

二回目の高速代を払うことになったとき、先輩は係の人に一瞬お金を渡したくないといった変な間を挟んで現金を渡した。「あーやっちまったなぁ」という先輩。

「決めたジョコビッッチ」

路肩に車をとめ、そこにモスがあるからモスバーガーを買っていこうという先輩。千円をもらって助手席の扉をあけてモスへむかう。看板にはモスプレミアムと書いてある。ガラス扉をあけ店内へ入ると見慣れぬ雰囲気。テイクアウトですというと「ではこちらの席へおかけください」と椅子をさす店員。メニューを持ってくる店員。普通のモスバーガーや照り焼きバーガーのないメニュー。一品千七百円とか書いてあるメニュー。千円を握りしめ店を出る。先輩の車へもどる。起きたことを説明する。

「コンビニがあったのでおにぎりかサンドイッチにしましょうか」とたずねる。「そうしよう、千円で足りる?」と聞く先輩。

最後の甘栗のかけらを口へ落とそうと、テレビの前で甘栗袋をさかさまにして叩く。糖分で底へくっつき、なかなか落ちてこようとしない栗。二杯目のワインが入った紙コップ。といっても四分の一の水位。傘をさしているので顔が真っ暗になったテレビ画面の中のアナウンサーと解説者。試合は次の一節へ進んでいる。人々が青緑の傘やレインコートや短パンや長ズボンやスカートでアナウンサーの背後を通り過ぎていく。傘で小さくなった灰色の空。

「音楽もありません、歓声だけで入場するメドベージェフとアルカラス」

次の試合が始まる。明日の朝食は六時半。でもそれを食べない先輩。駐車券を部屋に忘れ、蒸し暑い地下駐車場から部屋へもどった今朝の彼。今日は明日のために駐車券を車の中へ置いてきた。

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