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夜中に回してあった扇風機は止めたまま、静かな午前中に目覚めた。窓の色は灰色、ガラス越しの空の色。手洗いを済ませ、台所の小机の上にノートパソコンを置いてこれを書いている。冷蔵庫が小さく継続的に唸っていて、時折ぷくぷくと水泡の発生するような音がする。
先週のことだ。歯を抜かれた。親知らずだ。渋々とはいえ同意のもとだったので「抜いた」が正しい。でも本当は抜くつもりではなかった。最初は治療をお願いしていた。「抜く選択肢もあるけど?」と治療前に聞かれたが、まだできる限りはとっておきたいし、再来週には出張もあるのでと伝えた。
麻酔が施され治療が終わった。「危惧していたより奥まで達していませんでしたね。じゃ、一旦ゆすごう」と言って先生は別の患者へ移っていった。自動でぬるい水が紙コップに注入される機械から紙コップを取り上げ、うがいをした。再び椅子に座り直す動作が数年歳を重ねたように重い。タイムスリップしたか、宇宙から帰還して重力を全身で受け止め直した飛行士のようだ。
まだ顎の付け根あたりに鈍痛があるので頬を掌でさする。「まだ痛みますか?」と衛生師さんが聞き、「はい。ず〜んと」と答える。衛生師さんが先生へそれを伝え、もう一度口内を見る。「上にも虫歯があるんですよ。それが影響している可能性も考えられる。麻酔しますね」と治療が再始動する。麻酔が打たれる。今度は上の歯。午前でも満席の忙しい院内は一瞬の隙間でも先生を席から外させる。
「どうですか、痛みは消えましたか?」と、少しの間を置いて衛生師さんが尋ねる。「まだ鈍痛が残ってます」衛生士さんが席を立つ。有線放送を薄くかけ続けているクラッシック音楽が天井のあちこちに埋め込まれたスピーカーから小さく流れてくる。ここは源泉掛け流しの名湯の湯船なのだ。檜の湯船の縁に後頭部をもたげ、足先を水中にだらりと伸ばしている。ガラス窓は気温差で曇ってしまい外は見えない。後ろの洗い場で誰かが水圧の強いシャワーや蛇口を押している音がする。
まだ残っている鈍痛がすぐさま現実に引き戻す。先生が再び帰ってくる。お帰りなさい先生。お昼の時間はあるんですか、毎回忙しそうです。「やっぱり、原因は下なんだな。上の麻酔で痛みが消えないってことはですね、親知らずの神経の方に虫歯の影響が届いてしまっているのかも知れません。ちょっともう一度口を開けて」再び麻酔の注射が打たれる。今回は先ほど治療した親知らずの周りだ。注射器を強く握る先生の手が震えている。強く力を入れて注入するためなのだろうが、その震え方は怒りのそれと似ている。目のすぐ下で恐ろしい震えが再び。
「どうですか?」と衛生士さん。「楽になってきました。」「せっかく削って、治療していただいたばかりなんだけど、抜いた方がいいかもって先生がおっしゃってます。神経までの治療は器具が入りにくくて・・」衛生士さん。「わかります。そうですよね。じゃあそうしてください。」席を立つ衛生士さん。別の患者のところにいる先生の横へ移動し、何かを伝えている。先生が別の患者に処置をしながら返事をする。戻ってくる衛生士さん。「それじゃ、これから抜歯をしますので準備します。もう少しゆっくりしていてください。」そう言って彼女はトレーの上に様々な追加器具を置きながら仕事を進める。直視しなくても、触れ合う金属の音で普段とは異なる器具だと知ることができる。
「はい、もう少し開けられるかな?」四本目の麻酔が打たれた後に力強い先生の手がこれまでの治療とは異なる器具を口へ突っ込む。グラグラと左右に揺らされる先生の腕。天井で白く光る蛍光灯を見る。その端にとても小さな水色に輝く一点がある。それを頼りにする。そこだけを見つめる。謎の水色のぼんやりした小さな点が拠り所として私自身を支えてくれる。サンペレグリーノのミネラルウォーターのラベルと同じ色をしたその水色の点が目の端に映る様々な行為とそのための特殊な灯り、アーム、吸引する音、拡大された先生の手、揺れる頭の視界を僅かに遠のかせ、平安のありかを伝える灯台として光っている。
「お持ちになりますか」と衛生士さんが尋ね、「はい」と答える。プラスチックの歯の形を模したしたケース。「お会計は〇〇〇〇円です。それとこちらが抜歯後の注意事項を書いたものですのでご一読ください。」
階段を降り、踊り場を背にして外へ出ると正午を三十分以上過ぎた太陽が強く照る。ちょうど青になった横断歩道へゆっくりと進む。白く塗られた横断歩道の塗装が眩しく光る。携帯電話をどこにしまったかと鞄をまさぐると、抗生物質の入った袋がかさかさと音を立てた。
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