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オペラを観た。といっても映像で。マリア・カラスのドキュメント映画。彼女の人生の後半を、残っているライブ映像と写真、本人のインタビューで振り返るもの。満席になれば二千人は下らないだろうという規模の文化施設。横幅15m近い巨大なスクリーンに映し出された彼女は厚化粧な日もあれば、近しい人が撮影したことが知れる素顔なものまである。一人の人間の見せる表情の広さ。
その日の朝は乗る予定より二本早めの電車に乗った。お腹が心配だから一本早めに乗ろうと思って出発したのだけれど、なぜか早足になってしまい、それを止めることができず、気が付けば二本前の電車にぎりぎり間に合ってしまった。後ろから走ってきた防衛大学生と共に列車の最後尾に息を上げながら滑り込んだ。
祝日だったので座れた。それでもイヤフォーンをはめて朝のイライラが漂う世界にシールドを張り巡らす。主に音楽を流す外国のラジオ。80年代や90年代のイタリア、知らない曲。雨が窓を斜めに濡らしていく。上大岡を過ぎてビルが増える。低い雲に上部を隠した建物。水滴が横移動をしながらゆらゆらとガラスを下っていく。90年代のロマンティックに溢れたイタリア歌謡曲。試験中なのか、問題集を読む若い人。その隣の祝日のスーツ男。
最寄り駅のコンビニに入ろうと思った。雨足が強い。落ち着いてコーヒーを飲む場所もなさそうだったのでスターバックスにする。紙コップに入れてもらったホットコーヒーを蓋をせずに飲む。海外からのお客さんたちが半数以上の店内で、静かに響く彼らの音声に耳を傾けながら朝ご飯がわりのコーヒーを飲む。レシートには「本日中はもう一杯、安く飲めます」との宣伝が印刷されている。
諸々が終わり、昼食を済ませて午後になった。いよいよマリア・カラスが歌い出す。CDでしか聴いたことのない彼女の歌声が大音量で響く。とても一人の人間から出されている声色だとは思えない音の振動。彼女の上の歯並びが真っ直ぐに近いことに初めて気が付く。ほとんど全ての歯の長さが同じなのではないかと思われる直線的な歯並び。鼻の大きさ。巨大な瞳。NYでの凱旋ライブのために地べたに座ってチケット売り場に並ぶ二十歳ほどの青年たち。何時から、そしてなぜ並ぶのか尋ねるインタビューアー。「二十世紀最高の歌い手だからだよ!」
そして、1977年の死。
帰る前にレシートを使って、安く手に入るコーヒーを飲もうと思っていたのに、まるで朝と同じようなそそくさとした足取りで自動改札を超え、気が付けば列車内の席でスマホの電源を入れ直していた。東京という街から一目散に離れるようにアマゾンプライムでダウンロードしてあった映画を再生し、イヤフォーンを耳へ押し込んだ。また雨が降っていた。でも帰りは車窓をほとんど眺めなかった。小さな画面の中で、雨に髪を濡らした登場人物たちがガラスを割りながら近未来の世界で戦っていた。
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