穴 Hotel

寂れた商店街のドラッグストアで、クロワッサンを買いました。

6個入りで189円という安さに旅の思い出が蘇ったからです。

 


 

蒸気のような音をたて、列車はヨーロッパの洗練されたイメージとはかけ離れた駅に到着した。

 

全日まで過ごした町は保養地としても著名だったが、今日の町は大分騒々しい。

その差異に驚く間もなくインフォメーションで地図と宿の場所をいくつか教えてもらい、さっそく出かけていく。

というのも駅前は昼間だというのに物騒な雰囲気があり、アフリカとヨーロッパを足したような新しい国の姿をしていた。

 

 

 

スマホで宿が予約できるという技術ははまだ発明されておらず、宿を予約するには電話か飛び込みが主流だった。朝食付きという安宿を幾つか検討したあとに結局駅の近くに宿を決めた。

慣れない外国語を公衆電話で聞き取るのは難しかったし、二軒目は売春宿だった。

 

元気な時は気に入った宿を見つけるまで歩きまわったものだけれど、どの道直ぐに出発するつもりだし物騒だといえども、一刻も早く荷物を下ろしたい気分のほうが勝る時があるものだ。

 

駅の正面を露天商に沿って歩き右手に折れると小さな地元民の為の広場がある。その一角に宿が何軒かあった。鋭い目つきをした男が複数いるが、突き当たりにはスーパーマーケットもあり、総菜屋やカフェも近い。

 

その宿は二つ星ホテルの数軒先、看板もないアパルトマンの三階にあって、勿論地上階に受付などはない。ただ堅く閉ざされた鉄の扉と黒ずんだインターフォンがあるだけ。

そのインターフォンの表示板から目当ての宿の名前を探し、ボタンを押す。

担当者が出て、なにやら言い慣れたセリフを早口で喋る。用件を伝えると鍵がガシャンと音をたてて解錠され薄暗い階段を上る。

 

陽の光りが苦手そうな受付担当の男が扉の向こうに現れ、部屋を見せてもらう。パスポートを提示し二泊分の宿代を支払う。

 

「朝食は込みかい?」

 

青白い顔をした男がぽりぽりと頭を掻きながら答える。もさっとした髪がどことなく映画監督のロベルト・ベニーニとタランティーノを足したように見えなくもない。

 

「あぁ、コルネットとコーヒー。コルネットは籠の中。コーヒーはそこの機械で自分で入れてくれ。」

「そうか、ありがとう。」

 

受付の時に床へ下ろしてあった鞄を持ち、部屋へ向かう。

ベニーニが背中越しに声を掛ける。

 

「7時から9時までだ」

 

固めのベッドへ靴を脱いで寝転がり背伸びをすると、緊張がほぐれたのが分かった。

そうか、朝食の時間のことか。

テレビではMTVがレッチリのOTHERSIDEを流していた。

 

 

翌朝、期限ぎりぎりの時間に目覚めて受付へ朝食を受け取りにいった。

自動のコーヒーマシーンでカプチーノと書かれたボタンを押し、紙コップにベージュの液体が注がれるのを寝ぼけ眼で待つ。

籠にあるというコルネットとはクロワッサンのことだ。

といってもパン屋さんが焼きたてを持って来たわけではなく、スーパーで売られているような個別に包装された袋入りの量販品。

 

「これのことか・・」

 

まさに安宿。

席を外していた受付係が奥の扉から出て来た。しかしその姿は色白のロベルト・ベニーニではなく、日に焼けて健康そうな肌をした女性だった。

 

「バッド・カプチーノ」

 

彼女はそういうとお茶目に微笑んだ。

 

部屋へ戻り、カプチン修道界から名前をもらったという熱い液体を飲み、コルネットと書かれた袋を開ける。

中にはヘーゼルナッツと低品位なチョコクリームのクロワッサンが入っていた。

扉を開けて直ぐにでも落ちそうな小さなバルコニーから広場を眺めると、強く指す太陽の中で賑やかな市が立ち、客寄せの声と寝坊助が遅れて準備する音、常連客とのやり取りがそこら中で聞こえた。

 

「悪くないな」

 

三人乗りバイクのクラクションが響き、遠くのロータリーからは長距離バスが次の目的地へと出発したようだった。

日陰で暗がりになった小さな隙間から鳩のつがいが羽音を響かせて飛び立った。

誰かは走り、誰かは歩いていた。

 

 

二日の予定だった滞在は結局二週間に伸びた。

毎朝あらゆる場所でコルネットというチョコレート入りクロワッサンを食べたので美味しいクロワッサンの見分け方も心得た。

美味しいコルネットには穴が空いていない。

パンの上にも底にも穴が空いていないコルネットはどこで食べても美味しかった。

そんなちいさな秘密は二日間の滞在ではきっと見つけられなかったに違いない。

 

起き抜けに顔を冷たい水で洗って拭い、カーテンを引く。

南向きの大きな窓を開けると、10月の割に半袖でも充分過ごせる暖かな陽射しに目眩を覚えた。

 

ここは横須賀だ。

 

時折この街に響く汽笛が鳴ればもっと劇的だっただろう。

 

テーブルの上にはドラッグストアで買った安いコルネット。

その表面には二カ所ほどチョコレートを注入した穴が空いている。

しかし、何も美味しいものだけがこの人生の素晴らしさを物語るわけではない。

安価な油の味がするヘーゼルナッツ入りチョコクリームが今朝、どこか遠くへ旅立たせたように。

 

 

 

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