追悼記録 『メカスさんを語る』

ギャラリーときの忘れもの主催『メカスさんを語る』

 
2019年1月23日にニューヨークの自宅で日記映像撮影者として著名なジョナス ・メカスさんが逝去されました。世界中で彼の死を惜しむ声が聞こえ、オランダで開催中だった映画祭では急遽追悼映像も上映するプログラムが組まれたといいます。

 

日本でも先日、『メカスさんを語る』と題した追悼会が東京のギャラリー <ときの忘れもの>にて開催されました。
話し手はNYや日本で数十年その活動を支えてきたメカスさんに近しい方々。

 

 
主催である<ギャラリー ときの忘れもの>オーナー 綿貫様に許可を頂きその内容の一部を書き起こし、ここに掲載いたします。

 

以下の文章はトークの一部再現です。話者の言葉になるべく近く再現したつもりではありますが、文章と話し言葉の間にある果てしない距離を埋めるため、多少の置き換えや、順序入れ替えを行った場面もあります。これはあくまで混乱や誤解を避ける為であり他意はありません。ご了承下さい。
 
間違いなどありましたらご指摘頂ければ助かります。

 

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追悼トーク『メカスさんを語る』─記録─

 
開催日:2019年2月21日

 

 
左から 木下哲夫さん、飯村昭子さん、植田実さん 会場にて

 

話し手
・飯村昭子さん
メカス書籍・映像の翻訳者。フリージャーナリスト。長いNYでの生活中に、メカスさんの活動を肌で感じてこられた。

 

・木下哲夫さん
日本でメカスさんを紹介し、映像コメンタリーや書籍を翻訳。日本においてメカスさんを語る際に欠かすことのできない友人。メカス日本日記の会。翻訳者。

 

・植田実さん
住まいの図書館編集長。『メカスの映画日記』装丁者。

 

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「百を過ぎてもお元気だろうと思っていたのでショックでした」という綿貫さん(ときの忘れものオーナー)の挨拶で会は始まりました。

 

話し手の紹介後、飯村さんがトークの口火を切ります。
 
(以下敬称略)
 
 

 

<メカスさんとの出会い>

飯村:
NYに来てメカスのムービージャーナル*1に出会いました。毎号読んで非常に惹きつけられました。
それは映画の話を書いているのだけれども人間の話なんです。商業主義やお金のためではなくて、やりたいからやる。食べないでもやる、生活保護をもらってもやる。そういう一風変わった映像作家たちのことを書いていたんです。
それまで誰も取り上げようとしなかった人たち、まったく知られていない人たちを。

 

彼は素晴らしいコラムを毎週書いていたので、このためにNYに来たと思わせるくらい惹きつけられました。
このメカスの紹介記事によって有名になった作家が多数います。ブラッケージももちろんそうでしょう。

 

 

USA版Movie Journal (左)

 
そしてメカスは自分たちの劇場を作って毎週上映できる場を設けた。そこでは貧しい映画作家達自らがモップがけするなど、みんな働きました。
一方で無名な個人映画を上映しようとしない巨大な映画祭に、メカスは抗議し、商業主義や決めつけと戦ったのです。実際に座り込み等の行動も起こしました。

 

「切れば血のでるようなフィルムを」彼はそういった。

 

後にこういった行動のおかげでいくつもの映画祭が独立映画を写したし、個人映画の上映スペースが増えたのは確か。

 

メカスは常にお金が無かったが、「明日入ってくるだろう」といい、出所のわからない自信があった。
ジャック・スミスは家賃が払えなくて「明日家を追い出される。だから今週上映したフィルムの代金を払え」とメカスに迫った。こういった作家との折衝も行い、日々色々なものと戦っていたのがメカスだった。
とにかくお金がなかった。

 

「日々のそういったものは、寝る前にトイレの水をうわぁーっと一息に流し、スッキリして眠るんだ」とメカスは話した。
 
 

 

<メカスさんが亡くなって>

飯村:
彼自身はお金がなかったが、亡くなって振り返るとアンソロジーフィルムアーカイブズ*2 があるんですよ。沢山のフィルムと世界中に共感した人達。そういうものが残ったんです。
これは凄いこと。お金持ちが作ったんじゃないんです。一文もない人がアンソロジーを作って残したのですから。
お金がある人でもやらない、できない。なぜ一生の内に出来たのか。分からない。

 

あの人は変わった人ですよ。誰もやらないことをやる。エネルギーがものすごいある。私はなにもできないんだけれどもやらされちゃう。そういう影響力のある人でした。
それと、メカスは編集者ではないのに、色々なものが集まってきて結局自分がやらなければいけなくなってしまった。色々なものを引きつけてしまう人だった。
 
 
メカスは毎日二時間散歩して、十分間、逆立ちしていました。食事もマクロビの本でいいと書いてあったら本当にやってみて、美味しくなさそうなものも食べてましたよ(笑)普通やらないでしょ。

 

木下:
ニンニクも丸ごと食べていましたね。

 

飯村:
そう、次の日匂うから食べないとかそういうことはしない。
 

 

<撮影について>
 
飯村:
彼はテクニックは重要視しなかった。
素晴らしいのは映像はもちろんだけれども、それとともに入っている言葉、声そのものが価値を持つ。誰も言わないけれど彼の声はとても魅力的、一度聞いたら忘れられないでしょう。
使う言葉は簡単で短い言い回し。映像と同じようにそれがぐっと迫ってくる。
芝居じゃないです。

 

メカスそのものが映画になっている。

 

言い回しや調子は書籍には入りにくいけれど、映像は空とか空気とか一番最初に命が接するものを捉え、伝えることができる。

 

あの人は自然をとても大切にしていた。
 
 

 

<アンソロジー・フィルム・アーカイブスについて>
 
2014年 Anthology Film Archives (撮影 ヨコスカ・シネクラブ 筑間一男)
 
 
木下:
1981か82年。NYで飯村さん達と夕食に行ってメカスさんと初めて会った。
その後アーカイブスへ行くと版画のポートフォリオが積んであった。
売れなくて。

 

アンソロジーは留置所付きの元裁判所を改装したもので、版画や写真など大事なものは留置所の部屋へ入れてあった。そこなら安全だろうということで。
とにかく荷物だらけだった。

 

飯村:
 最初の頃のアーカイブスはそうでした。今は綺麗になりましたね。
スクリーンはオノ・ヨーコさんとジョンが寄贈した。
でもどこにもヨーコやジョンの名前は書いていない。だからだれもヨーコさん達が払った協力を知らないし、彼ら自身もそれを誇示しなかった。二人はメカスの頑張りを知っていたから、彼に尊敬を持っていた。
だからメカスはアンソロジーの映画館内で三人の写真を撮ってポスターにした。あれは言葉にしない感謝、そういうことをする人だったのよ彼は。

 

メカスのそばにいてお金があれば、あれは出しますね。出さなければと思ってしまいます。それはメカスが自分の為にやっているわけではないので。
 

 

<なぜ亡くなったか>
 
木下:
アメリカでもロンドンでも誰に聞いても百歳以上生きるだろうと思っていた。

 

ひとつあるのは、

 

メカスさんは若い頃地方の新聞に詩を載せていたのだが、後年その新聞を研究した方がいて、その新聞や団体が反ユダヤ寄りの新聞だったこと、メカスさんが所属していた団体の問題などを追求されていた。
また、反ナチの活動ではなかったのではないかという相違点も指摘された。
メカスさん自身の書いたものは詩などでナチ思想と直接関係するものではなかったが、しかしメカスさん自身もその辺りの過去を正直に話してこなかったことが疑いを持たれた。
96才という高齢はもちろんだけれども、その批判が気力を挫いたということはあるかも知れない。

 

みんな百才以上まで生きると思っていた。
 

 

<木下さんの思い出>
 
メカスさんに最初に頼まれたのは、日本にも上映料を払ってくれない場所があるので催促してくれということだった(笑)

 

─来日時の思い出─

 

あるとき詩人の吉増剛造さんが「あなたのお父さんやお母さんはあなたのことをなんと呼ぶのですか」と尋ねた。
メカスさんは「ヨーナス・メャァーカス」と答えた。(ミャーカスに近い音)
この件もあってか最近のインタビューでは自分の名前を正確に発音しようとした民族として日本人を挙げている。

 

日本滞在中はよく食べ歌った。
連れて行かれた博多のラーメンと神戸のオリエンタル・ホテルのコンソメスープが気に入ったようだった。
東京で日本の若手映画監督の作品を見てくれと頼まれたことがあったが、どれもその時の豚骨ラーメンやコンソメスープのレベルには達していないと語った。
映画でも何でも普遍的なレベルというものがある、そのことを言っていたのだと思う。

 

訪問した先々で受けた似たようなインタビュアーの質問に対して、いつも違う方角から答えていた。最初は同じように答えるだろうと油断していると、毎回全然違う角度から話をするのでこれは大したもんだなと思った。(木下さんは滞在中の通訳も担当していた)

 

飯村:
日本は楽しかったって言ってましたよ。
 

 

<何故ニューヨークに留まり続けたか>
 
飯村:
メカスにとって居やすい場所ではあったと思う。戦う場所でもあったし、新しく来た人も縮こまらないで、入って行かなければならない。またその為の道もある土地だった。NYとはそういうところ。

 

NYは誰かに気を使って「言わない」ということはしない場所。言いたいことがあればはっきり言うし、逆にちょっと腕がぶつかっただけでも「ソリー」と常に声をかける。
 
日本に帰ってきて思うのは、皆さん百パーセント言ってないんじゃない。あれと思ったことを口に出さない。それで溜め込んで一気に噴き出しちゃう。だから恐ろしい事件が多いのではないか。言えばいい、その場でどんどん言いたいことは言う。

 

植田:
『リトアニアへの旅の追憶』にみられる故郷、自然といったものを大切にする一方で、
彼の本にも書いてあるけれども、20世紀の惨めなこと、大量虐殺等の悪いことの多くはヨーロッパ的な知恵から出ている。だから彼自身の原点はヨーロッパにあるのだけれど、そこは信じない。こういう二面性は誰も今まで言わなかったと思う。

 

一方でNYに行くつもりはなかったけれど着いたらここに住むんだと決めちゃう。

 

飯村:
生きなきゃならないから。ブルックリンにはそういう同じような人が沢山いたから。そういう人を記録したい。全部残したい。だから誰も批判していない。全てを受け入れるんですね自分の人生を。むしろ、食べ物も寝るところもないという状況をエンジョイしている。決して嘆かないというのは彼の強さだと思う。

 

植田:
それはカメラを持っている人だったからでしょうかね。
 

 

<植田さんとメカスさん>
 
 
植田実装丁『メカスの映画日記』フィルムアート社 (裏表紙)
 
 
植田:
飯村さんとは大学の友人であったためメカスを知った。
『リトアニアへの旅の追憶』を観た。
田舎のほとんど何もないところで生活しているシーン、しかしそこが世界の中心なのだというイメージ。説得力。

 

<ときの忘れもの>で『ウォルデン』を観たのだけれど、これを観て初めて彼のことが分かった。

 

美術の世界の話をすると<新しい印象派展>分割主義というのをやったけれど、映像でいえばメカスさんは細かく分割し、すごく揺れる。彼はこれまでの映画の上映時間や物語、撮影者という立場を含めて全部壊した人だった。
作る前に一人称で書こうか、三人称で書こうか小説かエッセイかと悩んでいる文学は、彼の映像に比べるとちょっと置いていかれているのじゃないかとさえ思える。
 

 

<メカスさんの自宅を訪問したことのある岡本さんの逸話>
 
岡本:
初めて会ったのはNYでその日はテロのあった9.11の前日だった。
アーカイブスを訪れたが月曜で休みだった。
なぜかたまたま扉が開いていた。
逆光が作用したため、人違いだったのだが招き入れられた。
中にはメカスさんがいて、そのままアンソロジーを案内してくれた。

 

翌日テロがあった。

 

NYは封鎖された。行く場所もなく街を歩いているとメカスさんにばったり出会った。
これから友人とビールを飲みに行くので、来ないかと誘われた。
スプリングラウンジでビールをご馳走になった。

 

日本に戻り、ときの忘れもので展覧会が開かれていてメカスさんの作品を買わせてもらった。

 

飯村:
優しいい人でしょう。とても優しい人なんだけど、怒る時は凄く怒る。でも、怒られた人が怒らないような怒り方で。
それは編集者の要素だと思う。だからケンカしないのに勝ってしまう。
反対する人もいつのまにか取り込んでしまう力が彼にはあった。

 

だからアンソロジーができたのかもしれない。
 
 

 

─以上 記録終わり─
 
*1 雑誌 village voice に連載していたメカスさんの映画記事 “Movie Joural” これをまとめたものを翻訳した日本語版が『メカスの映画日記』(飯村昭子訳 植田実装丁 フィルムアート社)
*2対談中のアンソロジーとは<Anthology Film Archives>のことでメカスさんが主導して作ったNYにあるフィルム保存館。(AFAと略す場合もある)
膨大な所蔵フィルムの他に映画館や録音スタジオ、書庫も備える。創立40周年のパーティーではジム・ジャームッシュが作品を上映した。命名するにあたり定冠詞”THE”をつけなかったのは世界中に同じような場所ができるだろう、できて欲しいというメカスさん達の思いによる。
 
 
 
 

終了後の食事会にて

 

─書き起こし後記─
 
メカスさんが自然を大切にしていたという話がありました。
確かに、彼の映像には都会に点在する小さな垣根の植物や枝葉の揺らめき、虫、街なかの鳩、トカゲなど一見他愛のない極小の自然が度々登場する。
どこに住んでいようとその場所にある小さな生命が自然という姿を借りて語りかけてくるなにか。時として愚かな言動を行ってしまう人間に対し、一言も口をきかない樹木やその影、木の葉がひっそりと語る真実。それを大切に見つめていたのではないか。そんな風に思えてきます。

 

木下さんが話の最中に突然思い出したといって優しい微笑みとともに語り出すメカスさんの姿。
また、飯村さんがNYの極近くから見つめてきたメカスさんとその周囲の人々との逸話。
それらは彼の映像や本を読むだけでは得られないものも多く、大変貴重な機会となりました。

 

 
91年来日時 アサヒビール本社ホールにて メカスさん、木下さん(撮影 ヨコスカ・シネクラブ 筑間一男)
 
 
 
──話し手の方々について──
例えるならば、リチャード・ブローティガンに藤本和子さんという深い理解者(翻訳者)が必要だったように、メカスさんにも木下哲夫さんという稀有な理解者が必要でしたし、飯村さんと植田さんによる名著の翻訳・出版が必要でした。また、不屈の画廊主綿貫夫妻の支援がなければ日本におけるメカスさんへの理解は今日のようには伝播しなかったはずです。

 

こういった数十年来の友人たちが笑顔とともに話してくれる故人の思い出の数々は、それが誰であろうと尊いものであり、僅か一月前に深い友人を失ったばかりの方々が家路につくとき、何度もたった独りで受けとめなければならない喪失感は想像を絶するものがあります。

 

 メカスさんが映像や著書の中で折に触れ発信していた言葉。

 

”Keep Going!”

 

「さぁ、続けよう!」という短いメッセージ。これは残された者にとって、それぞれの分野や日常の中、折りたたまれた膝をもう一度伸ばし、よいこらしょと立ち上がる発動の小さな火種になるのではないでしょうか。

 

幸いにも日本には幾つかのジョナス・メカス フィルムが現存しており、写真作品もギャラリーに所蔵されています。また、様々な世代・場所で展示や上映を企画する方々があります。未体験の方はお近くの会場で是非メカスさんに触れてみて下さい。

 

*直近では2019年3月に東京と京都で展示上映が開催されています。

 

最後に快く掲載を了承してくださった<ギャラリー ときの忘れもの>綿貫御夫妻とスタッフの方々、話し手の皆さん、そして様々な新しい視点や友人達との出会いを与えてくれたヨーナス・メャァーカスさんに感謝をしてこの記録を閉じたいと思います。
 

 

ありがとうございます。
 
 

 

バルーン・シネマ  西村  

Supecial Thanks ─ 写真提供(ヨコスカ・シネクラブ 筑間一男)

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