あの頃とこの頃

重い木戸のガラスの向こう、出入り口に二番目に近い横長の席で女性が二人お茶を楽しんでいる。扉を引いて中へ入り、カウンターの席につく。七月の終わり、意識が背中と首の付け根の辺りから抜けていくような暑さの夕方。それでも温かいコーヒーを頼み、椅子にじっと腰掛ける。

そういえば十年ほど前、お店にクーラーはなくて、扇風機だったことを思い出す。これだけの暑さの中でどうやって過ごしていたのか、既に思い出せない。そのことを三人以外に客がなく、手の空いてきた店主に話す。店主は「あの頃は震災があった後だったからみんななんか優しくてね、バカなことやってても許してくれた」と答える。その後で冷房を導入したのだと。

コーヒーを飲みながら店主の添えてくれた甘いものを時々口に運んでいると、知人が恋人を連れて入ってきた。近くに座ったので挨拶を交わす。彼女とは初めて。彼の方が口を開いてこちらに彼女を紹介し、「前にお店に挨拶に行ったんだけど、最初行った時はお店が閉まってて、二回目行ったら無くなってた」と言った。みんなで笑って彼らは飲み物を注文し、こちらは続きの終わりかけのコーヒーを飲んだ。

外は熱気で音がかき消されたように静かで、誰かが「この細道の出口のところまでは本当に暑いよ」とこぼすのを耳にしながら退店した。路駐バイクのミラーにかぶさった半分型のヘルメットが干された亀に見えた。

出先でもらった小玉スイカを抱えて商店街を歩き家路についた。途中の列車で扉の横に立ったまま、前に抱えたスイカを赤子の尻を叩いてあやすようにペチペチと下で打った。乗り換えた普通車の座席ではスイカが転がらないように背負った鞄を手前に置いた。肉体労働でふらふらになったおじさんが空調服を着たまま近くへ座り、ファンのくたびれた音が彼の腰のあたりでジリジリィと蝉のように鳴いていた。

空中にて

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久しぶりに腹痛がきた。一昨日の夜だった。小麦をやめてから八ヶ月以上お腹の調子が良かったのでそれが中断されたのが何より悔しかった。汗が出た。早めに寝た。

翌日も胃腸の不良を引きずり、食欲のない一日を過ごした。ふわふわと拠り所のないような心持ち。今日、やっと朝ごはんを食べられた。昼ごはんも軽くだけれど食べた。腰が落ち着いて、自立している感覚を取り戻した。

家族の目の病院に付き添った。片目ずつ二週に渡り日帰りの手術をするのだ。「できれば付き添いの方がいた方が、」と言われたらしくそうすることになった。駅前の細い道が一方通行ではなく相互にすれ違うのがギリギリの道。眼科用の駐車場が満杯だったので一瞬の停車後、すぐに車を出した。

終了時間に迎えに行き、出てくる時だけ付き添った。大きな眼帯をして片目だった。昔に比べ目が小さくなったものだ。

子供の頃、プラスティックのバットが当たって危うく失明しかけ、眼帯を巻いて数日学校を休んだことを思い出した。友達が見舞いに来たような気もするけれど、その期間ふわふわと現実味がないような感覚で過ごしたのを覚えている。

自分の中身の一部が抜けて行方不明になっているような状態は、どうも地に足のつかない心の浮遊があるのかも知れない。



追記:ジュピターズ・ムーンという映画がある。空中浮遊する能力を持った青年の話なんだけど、この映画の中で彼が空に漂っているシーンがある。人々の行き交う都市の中でだんだん上昇していく。結構好き。なんだけどAmazonプライムビデオでは評価が低い。そのシーンだけでも、もう一回観ようと思う。

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外から長唄が聞こえる

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八時の朝だ。数日前に東京での泊まりがけの仕事から帰ってきた。開いた窓から熱気を帯びた真夏の空気が入ってくる。車道を忙しそうに通過していく車列。その合間に外から長唄が聞こえる。窓際の壁にいるセミも被せるように泣いている。長唄の声が抑揚を続けながら小波として届く。高齢者なのか、声の質は若くはない。性別は全く分からない。親戚のおじさんのような声でもあるし、八百屋のおばちゃんの太い声に似ていなくもない。ところが、この家のそばに長唄を習っている人は今まで確認されたことはなかった。

新宿の都庁が見えるホテルに泊まっていた。朝食はバイキング方式。白米と味噌汁と漬物と納豆を毎日食べた。ホテルのエレベーターは二十数階まである。エレベーター内の読み取り機に部屋のカードキーをかざさないと止まってくれないシステム。ロビーなどを除けば宿泊している階以外には降りることはできない。カードキーを読み取り機にかざすと泊まる(止まる)階のボタンが点灯する。一応ボタンもあるのだけれど、それは押しても反応しない。

宿泊中に何度かこのボタンに向けてカードをかざす人を見かけた。実は自分もそうした。数秒後には、右の壁に読み取り機があることに気が付いた。滞在中に見かけた人の中にはおばあさんもいた。最初にエレベーターのボタンを押すけど反応しないのであたふたしている。「カードかざすんですよ」と同僚と二人で伝える。「あら、すぐ忘れちゃうの」と、はにかむおばあちゃん。ポシェットからカードを出して自分の部屋のある階のボタンにかざすおばあちゃん。「いや、右の白いところです」と伝える。まるで聴診器を患者の背中で移動する医師のように次々と手を動かし、カードを別の階に当てるおばあちゃん。「ここですよ」と指をさして読み取り機を伝える。「あらやだ、わかんなくなっちゃうのよね〜」と明るく答えるおばあちゃん。

別の日は海の向こうからやってきた人だった。その時は他にも異国の人たちが二人乗っていた。その人も最初はボタンを押し、反応しないので矢継ぎ早に関係のない階を押しまくる。同乗の人たちみんなで「カード、カード」と声をかける。その体の大きな海の向こうからやってきた人は、ちょっと恥ずかしそうに、肩へ斜め掛けしたウエストポーチ型の鞄から素早くカードを取り出した。そしてもちろん読み取り機ではなく、ボタンの上にカードをかざしたのだった。「そっちの白いパネルにかざすんだよ」と何人かがいう。「こういうのには毎回お手上げさ」というような表情を見せながら肩をすくめる彼。「ほんとだよな」という空気が流れて場が和む。

夜の食事。大手チェーン店に入るとメニュー表は置いてなく、「スマートフォンをかざしてQRコードを読み取ってください」という時代になった。仕事を終えて、「ビール二つと、ハイボール、それと、とりあえず漬物と冷やしトマト、枝豆を下さい」で済むはずのところ、一体どこに漬物があるのかね〜とスマホ内のメニューを探さなければいけない。店員や企業は楽になったかもしれないけれどもだ。

宿泊した部屋はセミダブルのベッドが置かれていて、通路に鞄をおけばそれでほとんど終わってしまうくらいに幅は狭い。窓は開かず、そこから都庁や隣のビルの明かりの点滅を眺める。米粒くらいの車が信号で止まり、角を曲がっていく。子供の頃に遊んだゴム製スーパーカーのミニチュアのように小さな車たち。空に飛行機が通り過ぎる航路を見つける。シャワールームには質の良さそうな外装のボディーソープとシャンプーとリンスが置かれ、封切りされていない歯ブラシが二本、綿棒が二本ある。シャワーキャップはなかった。窓際にはテレビと瞬間湯沸かし器と小型冷蔵庫とドライヤー。引き出しにはコーヒーのドリップバック、粉のミルクコーヒー、砂糖、緑茶が日毎に。窓の開かない部屋で。

最後の夜は同僚が気になった店を見つけ、そこへ入った。ホテルからあまり遠いところには行けないので近くの路地を曲がったところ。締めの十割蕎麦が売りらしいこじんまりした居酒屋さん。十割蕎麦なので小麦を食べられない人でも大丈夫だし、おつまみメニューも美味しそうなものがあった。

女性二人がカウンターの中でキビキビと仕切る小さな店。シバエビ(桜海老だったかな?)の素揚げ、鶏レバーの佃煮、冷やしトマトは湯むきして胡麻と刻み大葉がのせてある。鰹の塩辛。品物の一つ一つに面倒だけど丁寧な仕事を施した料理だった。QRコードも配膳ロボットもいなかった。ラストオーダーは九時だった。

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