思い出のコップ、映画館の香り

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流し台に一脚、思い出のガラスコップが置かれている。長細く四角い面がいくつも合わさりながら少しずつ広がり、真上から覗くと口の部分が八角になっている。素材が良いだとか、懐かしいキャラクターが描かれているだとか、お気に入りだとかではなく、これといって好みな点など一つもないコップ。それなのに、なぜかこのコップを見ると心象風景が面前に現れたような感覚を受ける。

長細いそのガラスコップには自分のものではないアイスコーヒーが入っていた。おろしたてのグラス側面には四角いベルマークサイズの透明なシールが貼られていた。季節は静かで薄暗い夏の午後だった。部屋には誰もおらず、外の明るさに比べひどく暗い室内に扇風機の回る景色。

映画館へ行った。横須賀中央にあるシネコンで宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』を選んだ。その少し前に喫茶店で店主がそれを観てきたことを口にしたのだった。感想は尋ねなかったし、店主も映画館で観る映画が久しぶりだったこと以外は触れなかった。おまけにくれた甘いデーツを齧りながらホットコーヒーを飲み、一人の店内を見渡す。読み慣れた黒板の文字や壁の崩れかけた漆喰。半ば剥がれ落ちた天井の塗装。ぼんやりといくつも灯っている前時代の照明。他の客が残した溶けきらなかったクリームと氷の入ったグラス。冷えた水差しを滑り落ちる水滴。

空いていると聞いたレイトショー。客足はまあまあ。五席横に大きなポップコーンと飲み物のセットを持ち、深く腰掛けたひとり客がいる。G列と書かれた通路を挟んで、中年夫婦が膝掛けを直しながら上映を待っている。その前に席を取った別の二人組は小銭をポケットから落とす。スクリーンにはまだ暗くなり切る前に流す映画の予告。ナイロン製のリュックサックをいじる一人の若者。寄り添うカップル。早く席に着こうと急ぐ友達同士らしい二人組。やがて暗くなる劇場。輝きを増すスクリーンの光にポップコーンの油とシートや床の匂い、見知らぬ人の香水の残香が混ざりあう。映画と名付けられた虚構と現実の交差に臨場感が高まる。

スタジオジブリという見覚えのある絵と文字に始まり、水色の画面に漢字で製作者の名前が流れ終映した。ポップコーンを食べ終えた客が、鞄を背負おうとした背後をすり抜け、そそくさと一足先に退場した。

劇場の通路からロビーへ出ると売店はすでに閉店している。無人のカウンター内にジュースやコーヒーやポップコーンを販売するためのあれこれが、宿ぬしを亡くした部屋のように黙っていた。最初の一群がエレベーターに乗り、下っていく。二階で数名が降り残りはさらに下へ消えていった。ナイロン製の黒いリュックサックを背負った人が、立体歩道橋を駅へ向かい歩いていく。広めの歩道を抜け、明るい駅舎へ入ると、電車の到着する音が響き二、三人が一段飛ばしで階段を上っていった。

普通列車のがらんと空いている車内。斜め向かいに座った二人組の一人が「意味わからないっすよねー」と大きめの声で話す。映画の感想のようにも聞こえたが、日常の仕事帰りの同僚たちの会話のようでもあった。横須賀中央駅で扉が開き乗客が乗り込んでくる。それでも全ての人に座れる分の座席の余裕がこの列車には残されていた。

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静かな夏の夜の喫茶店で

話の内容とは関係のない白い飲み物(自家製)

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早めの夕食を済ませ喫茶店へ。食後のコーヒーを飲みに出かける。ここ数日は東京にいたこともあり外でコーヒーを飲むのは久しぶりだ。からんころんとは言わないけれど、そんな雰囲気の木戸を引いて中へ入る。その日は祝日の最終日で、どうやら連日忙しかったらしい名残が所々に漂っている。カウンターの端へ通される。逆の端にはまだ片付けていない背丈のあるグラスや使い終えた皿が置いてある。薄い灯りにくしゃっとなった紙ナプキン。まだ明るい夏の夜。

ホットコーヒーをお願いし、注文するつもりもない食事の黒板メニューを眺める。豚、鶏、斜線で消された何か、デザート。所々かすれた手書きの文字。白い粉。

店内には他に食事をしている二人組と一人でお茶を楽しんでいる若者。その若者がお会計を済ませ出ていくと、入れ替えに別の男が入ってくる。知人N君だったので隣の席へ案内され少し話す。本来は古道具屋さんなのだけれど、片付けのバイトもしている。店の奥からFさんもやってきたのでしばし三人で古道具屋談義をする。N君は古紙や金属をためて買い取ってもらっていること、先日催事出展した東京のデーパートで結構売れたこと。他の人のディスプレイも全部担当したことなどを話した。
Fさんは近所で最近閉店した古書店の話。片付けに来ている人に投げ売りで十冊百円で売れば片付けも捗るだろうと伝えるか考えている。

N君はiPhoneで請求書を作るにはどうしたらいいか聞く。昔はHTMLでサイトを作ったりもしていたらしいのに、今のN君はPDFの使い方どころかwi-fiが何かも分かってないし、ちょっと変。話が中々通じない。別の席で食事をしていた二人が微笑している。
「意外とレトロ人間なんだね」というと、店主が「違うよ、野人だよ」と笑いながら突っ込みを入れる。パンダの姿をした陶器の置物が棚の上で黙っている。

話が少し長引いたので追加で豆乳ゼリーの黒蜜がけを注文する。経年で細かな傷が無数に刻まれたアルミの皿に、背の低いガラスの器がのっている。円柱型に少し濁った白色の豆乳ゼリー。最上部に湖面の薄氷のように黒蜜が広がり、天井から吊るされたアンティークランプからの鈍い光をぬめっと反射している。窓の向こうの細い路地を米兵が談笑しながら歩き去る。

食事を終えた二人組が、おじさんたちの機器にうとく、昭和で時代遅れな話に半ば呆れたような笑顔でお会計を済ませ店を出て行った。N君が豆乳ゼリーを覗き込んで「それ、美味しそうだね」といった。

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キャンティっていう名の布団の上で

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ウィンブルドンのテニスを見るでもなく流している。ジョコビッチという名に聞き覚えがある。最初はニュースのはずだったけど、いつのまにかテニスになっていた。新宿。都庁の間近に見えるホテル。その九階の部屋でこれを書いている。顔をあげれば、ところどころ禿げ上がった芝生の上をジョコビッチが走り回っている。

ベッドの上に剥き甘栗の袋、照明操作盤の横に赤ワインのミニボトル。紙コップひとつ。ときどき隣室からゴンという物音。シワの多いカーテン。撮影の仕事で数日間滞在しているのだが、機器の充電やらなんやらでモノの溢れたホテルの部屋。将棋盤ほどしかない机の上と窓際のカウンターは既に置き場がない。床で飲むわけにもいかないので、(ホテルの一室でひとりそんなことをしたらアメリカ文学の一種みたいにさびしいだろう)しかたなくベッドの上にパソコンを開き飲んでいる。

本当は、少しはなれた場所へ飲みに行くかと考えもしたけれど、筋肉疲労と夕食が遅かったこともあり諦めた。画面ではジョコビッチが首をふっている。テニス放送では沈黙が定期的に訪れる。押し黙り、彼人がサーブを打つ瞬間を皆で待つ。静寂。ラケットが球を弾き飛ばす音か、彼らの雄叫びがその沈黙を破る。

「ジョコビッチはウィンブルドン七回優勝の記録があります」

東京へは同じ地元に居を構える先輩の車で向かった。彼の運転で横須賀から高速道で東京へ。彼は何十年もここで撮影している人なので安心して助手席に座っていた。横浜横須賀道路から首都高湾岸線へ移り、すいすいと走った。先輩は車の少ない走りやすい湾岸線になってから調子があがったようで、音楽をかけはじめた。アンビエントのようなニューエイジのような曲に無言で気分を高揚させながら運転する先輩。しばらく調子よく走っていたが、突然「あれ、どこだっけ?」と急に話をふってくる。こちらは道のりも聞いていないので「どうやっていくつもりですか?」と聞き返す。「新宿とか外苑なんだけど、ここどこだ」さっきまで気持ちよく走っていた先輩はフロントガラスに顔を近付けている。左手の方角ををみながら「あー、お台場にきてますね、ここは」と答える。

「ジョコビッチにブレイク」とアナウンサー

なんだかんだして一度下道に降り、再び高速に乗った先輩。

「マッチポイントジョコビッチ」というアナウンサー

二回目の高速代を払うことになったとき、先輩は係の人に一瞬お金を渡したくないといった変な間を挟んで現金を渡した。「あーやっちまったなぁ」という先輩。

「決めたジョコビッッチ」

路肩に車をとめ、そこにモスがあるからモスバーガーを買っていこうという先輩。千円をもらって助手席の扉をあけてモスへむかう。看板にはモスプレミアムと書いてある。ガラス扉をあけ店内へ入ると見慣れぬ雰囲気。テイクアウトですというと「ではこちらの席へおかけください」と椅子をさす店員。メニューを持ってくる店員。普通のモスバーガーや照り焼きバーガーのないメニュー。一品千七百円とか書いてあるメニュー。千円を握りしめ店を出る。先輩の車へもどる。起きたことを説明する。

「コンビニがあったのでおにぎりかサンドイッチにしましょうか」とたずねる。「そうしよう、千円で足りる?」と聞く先輩。

最後の甘栗のかけらを口へ落とそうと、テレビの前で甘栗袋をさかさまにして叩く。糖分で底へくっつき、なかなか落ちてこようとしない栗。二杯目のワインが入った紙コップ。といっても四分の一の水位。傘をさしているので顔が真っ暗になったテレビ画面の中のアナウンサーと解説者。試合は次の一節へ進んでいる。人々が青緑の傘やレインコートや短パンや長ズボンやスカートでアナウンサーの背後を通り過ぎていく。傘で小さくなった灰色の空。

「音楽もありません、歓声だけで入場するメドベージェフとアルカラス」

次の試合が始まる。明日の朝食は六時半。でもそれを食べない先輩。駐車券を部屋に忘れ、蒸し暑い地下駐車場から部屋へもどった今朝の彼。今日は明日のために駐車券を車の中へ置いてきた。

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