二回目が初回め

電話が震えてメッセージ。

「毛布が屋根に落ちてます」

え、取り込んだけど?
そう思いながら数日ぶりに家へ戻りベランダに出てみる。柵を越えて覗いた下の屋根に毛布が一枚、箸でつまみ損ねたおぼろ豆腐の一片のようにぺったりと屋根に張り付いている。あ。

一昨日と昨日は雷もあったし雨も降った。引っ張り上げて洗濯機へ放り入れ粉の洗剤を投入し、スタートを押す。

洗濯の終わった毛布をベランダに干し、遅めの昼食にする。夕食用に煮ていた北海道のツブ貝を一つ、くりんと殻から取り出して味見する。ツブ貝と言ってもこの辺りで取れるような小さいものとは異なり、パソコンのマウスを少しだけ小さくしたような大きさで実に食べ応えがある。スーパーで三百円で何個か入っているものを初めて見て買ってきたのだった。
食事を終えると日差しも弱くなっていた。だいぶ涼しいので腹ごなしの散歩に出る。民家の軒先に美しいピンク色の蕾をつけた蓮がある。それを目指して歩く。途中で小学生が元気よく楽しそうに駆けてきたのだが、僕らをみると止まって普通に歩き始めてしまった。

蓮の葉は水を張った大鉢を含めて背丈よりも高く、濃い黄緑色でピンクの蕾を一層もり立てている。しげしげと人の家の蓮を眺めるのはいいものだ。育てたわけでもなく、その苦労を知ることもなく、ただ美しい蓮を眺める。駐車場に十鉢ほど並んだそれをあれこれ見比べた後で来た道を戻る。途中で左へ折れて海への道を進む。幸い曇っているので七月の五日ではあるが、暑さはそれほど感じない。風もある。


平日で人気のない海岸。風がやや強く、白波が沖で騒いでいる。向こうに見える岬や岩肌、水面の返す陰影をしばらく眺める。曇った空にトンビが一羽ゆったりと舞っている。こいつら貧乏人は食べ物を何も持参していないようだとひとしきり旋回してからトンビはどこかへ飛んでいく。すると、入れ替わるようにぽつりぽつりと水滴が顔に当たる。雨だ。布団を干している。数日前にしばらく使わないからと干して片付けてしまおうと思ったまま取り込み忘れて風雨に晒し、さっき洗い直してまた干したあの毛布が干してある。

坂道をのぼったり降りたりしながら家路へつき、玄関で靴を脱いでドスドスと二階へ上がり毛布を取り込む。もうしばらく使うことのない毛布はもちろんまだ乾いていなくて重い。部屋の中へ入れると、背もたれのある椅子の背にかけ、時たま滴る水滴を拭きながら今はその椅子に腰掛けている。ノートパソコンを太ももの上に乗せてキーボードを叩きながら文章を進めていく。あなたが読めるように。または別のあなたの暇が一瞬でも紛れるように。

そして僕の背中は徐々に湿り気を吸い取って濡れ、気味悪くTシャツが肌に張り付いている。本当のことを言えばTシャツではなくておっさんぽいランニングを着ているのを除けば全て本当のことだ。

時刻は18時17分で外はまだ明るさがあるが、灯りをつけていない部屋は既に暗い。膝の上でパソコンの画面が光り、背中は濡れていく。

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今日は暇だ

風呂も浴びた。日中は出かける気の起きない暑さで半日椅子に座っていた。今さっき涼しくなってきた十六時十八分にシャワーを浴びる覚悟をした。二分後に扉を開けて蛇口を捻ってぬるま湯をかけた。それから出て、扇風機と網戸越しの窓辺に立ち、でかけようかと考えている。
日陰で、西から気持ちの良い風が吹いている。時折原付スクーターが通るくらいで静かな住宅街。電車に乗ってお茶でもしに行こうか。それともお酒か。

カーテンが風に押され引かれしている。網戸に張り付きしばらくそのまま。それからピヤーっと逆へ流れる。どうしようか。今日はツイッターが不調らしいし、特にやるべきこともやりたいことも思い浮かばない人生で何十回何百回目の午後十六時四十二分。

風が気持ちいい。このまま気絶しても幸せなくらい気持ちいい。電車がエアーだかガスだかを抜く音が遠くでしている。誰か老人が早めに雨戸代わりのシャッターを閉めた音が響く。さようなら、おやすみなさい。濡れた髪に風が当たる。

ズボンとTシャツは着ている。あとは靴下を履けば出かけられないこともない十六時四十六分。そうだ、コーヒーフィルターを買いに行くという口実もある。とはいえまだ余裕がるのを自分自身が知っている。誰かに頼まれれば今すぐにでもコーヒーフィルターを買うついでに出かけてお茶をすするだろう。はい、わたし行きまっす。と、良い返事で。

お財布に小銭がどれくらい入っているか確かめてみようか、もし五百円玉が一枚でもあれば出かけることにして、なければ家にこのままいよう。もし百円が五枚あった場合はどうしようか。千円札は何枚か入っているのを覚えている。でもPASMOのチャージが切れかかっているような記憶がある。三百八十円くらいしか入ってないんじゃないか。でもPASMOは出かけなきゃ残高がわからないと考える十六時五十一分。

ざっ、、ざざざっ、
立ち上がってみる。パソコンを離れて棚に近づき財布のチャックをえいやと開ける。あ、ない百五十三円しかない。でもその下に棚の小物入れの中にジップロックの中にいつだか使ったお釣り銭の残りの小銭が入っているのが目にとまる。ラッキー。袋を開け五百円玉を二枚取り出し財布へ移す。誰かが近所で水を撒いてる音がする。花に植木に草に壁に。

ジャワジャワじゃわ、ビシビシびしーー

カラスが屋上を超えて飛んでいく。鳴きながら。
取り急ぎ靴下だけは履いてみます。

それでは。また。十七時六分。

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なぜ釣りをするのか

 近場の海へ出掛けて釣りをする。そういう周期がある。しばらく釣り月間のような日々を過ごす。やがて、何をきっかけにというわけでもなく釣りが遠のく。それからずっと、釣りをしない月間がくる。そしてまた何をきっかけにするでもなく竿を握る日々が訪れる。

 ちょうど今、久しぶりの釣りブームがきています。
ブームだからといって、今流行りの釣りをするわけではありません。ルアーを新調してロッドを買い替えるとかも一切しません。

 では今流行っている私の、私たちだけの釣りを紹介しよう。
まず、使うのはボロ竿です。亡くなった叔父の物置を片付けている時に出てきたものです。だからといってそれを使うことで供養とかそういうつもりも一切ない。ただ、その日に使ってみたら結構壊れていて、それでもその竿で釣りをした、それがそのまま引き続いています。
 まず先端のガイドと呼ばれる糸を通す輪っかがない。二番目のガイドから糸が出ます。他の所々のガイドも外れたり、油断していると緩くなって竿を上下に移動したりします。この竿で投げるのは結構神経を使うわけです。先端の輪っかがないので、竿の棒だけが先っちょに余っている。そのせいで糸が竿に絡みやすくなっております。

 そして、ウキはたくさん持っているのですが、たまたま海岸を散歩している時に見つけた特大のウキを拾って使うことにしました。多少のオモリをつけても沈まない浮力のある大きなウキ。拳大ほどでしょうか。しかも先端の棒が割れていて、着水するときに鼓を叩いたようなポォンというやや高音寄りの響きを奏でます。うまく投げられたとき、というのは使用する竿やリール、オモリなどによって決まると思われますが、私の今現在の釣行ではこのポォンという音がどれだけ美しく響くかに高得点がつきます。飛距離とか、弧を描く曲線の角度だとか、自分の思っているところに飛ばせただとかは一切ポイントに加算されません。

リールもこの竿には仰々しい大きさです。浜から数十メートル投げるために開発されたリールに思われます。が、リールにもこだわりません。糸が出て、帰りに巻き取れればよい。

 

 
 

 さて、いよいよ投げる時がやってきます。いえ、その前に餌の話をしなければなりません。我々が今使っている餌はシラスです。よくスーパーで販売している釜揚げシラスです。食べきれずに冷蔵庫で眠ってしまったものを使うことにしたのが発端です。コスパがめちゃめちゃいいのは一見でわかりますね?ほんの一握りで何匹もいるではないですか。アオイソメや砂イソメは買えばそれだけで五、六百円します。たった一二回の釣行で終わってしまうにも関わらず。そして、シラスの良いところは手が臭くなりません。エビなどと比べれば雲泥の差です。ベタベタもしないし。ただですね、冷凍して持っていくと、最初は程よいのですが数十分もすると溶けて崩れやすくなります。それを丁寧に一本の針に沿わせるように刺して完成です。離れて見ると、餌がついてないのではと思うほど小さな餌。

 釣れるので?

 そう思われた方がいるのはわかります。しかし、今の私にとって釣れるかどうかということはほとんど意味のないことなのです。
 例えば読書をすることに似ています。ハウツーものや自己啓発本ではなく、一つの小説や随筆を読む。その結果、時によってはほんの少し賢くなったり知識や見識が増えることもあるかもしれません。しかし、それは後からついてきたおまけのようなもので、賢くなりたくてその本を選んだわけではないのです。小説を読むそのひととき、作者と重なり合い同化する、あるいは作者の眺めていた景色を追体験することができる。それと同じ気持ちで釣りをしています。ですので、全く釣れなくても悔しくもないし、残念でもありません。ただただ嬉しい。ヘンテコな竿を丁寧に扱い、えいやっと不恰好に投げてウキの着水する音を聞く。大して遠くへ飛ばないそのウキを眺める。小さい当たりでは沈まない大きなウキが流れていく方角を追いかける。あるいはじっとしている姿を。

 そうこうしているうちに相方が小魚を釣り上げる。念仏鯛だとかベラだとかカサゴだとか草河豚だとか。釣れたものは持ち帰って食べる。河豚のくうくうという声を聞く。それからタイドプールとも呼ばれる潮が引いて水溜りになったところへぽちゃんと入れておく。でないとまた釣れてハリスを切られても困るから。

 時々釣りプロみたいな人がただ魚が糸を引っ張る引味だけを求めて釣りをするらしいが、そんな野蛮なことはしない。

 こんな風に釣りに勤しんでいる間に風景が変わり、風が変わり、光が変わる。驚くような光景がすぐ下の浅瀬で起こる。水中の岩陰から大きな魚がのぞいたり、水面を何かが走ったり、得体の知れない奇妙な生物がうようよしていたりする。他の釣り人が来たり、散歩の人が鼻歌を歌ったり、着飾った若い女性がたった一人、ヒールの靴でそんな磯の奥まで何しにいくのかと周囲を不安がらせたりする。それらの一切合切が読書の一行一行のように重なる。地球のこの一角と自分が一体化する。

 そして、立ち去る。あらゆる道具を片付け、釣れたならば魚の入ったバケツを持ち、不漁ならばその分の過ごした時間を抱えて帰る。相方と話した他愛のない会話や水面の揺らぎが思い出させた出来事などを満杯にして。