そうだったのかポランスキー

観たことを憶えている映画02

 

 

日本の世間的には、十日間という前代未聞の大型連休があった。

そのゴールデン・ウィークという連休の最中に一番勉強になったのは、

 

ロマン・ポランスキーは悲惨だった、ということ。

 

 

通りの方へ首を伸ばすと車道が見える窓。週末や連休ともなると大勢の観光客が何かを求めてその道を通ります。

今日は車がどれくらい並んでいるだろうか、そう思いながら連休中は何度も顔をガラスに寄せました。

一本しかないその道は、時計が回る決まりごとのように昼間は左へ混雑し、夕方は右方向へ渋滞するのでした。

 

こんな日は映画だ。

 

スッキリしない体を斜めに投げ出し、リラックスして映画を始めます。

 

『ロマン・ポランスキーの欲望の館』(原題:Che? イタリア語でWhat?)

 

とにかくまずはおっぱいが出てくる。

 

居酒屋のお通しのように、または手慣れた雀士の捨て牌のようにスッと出てくる。マストロヤンニも出てくる。言葉にするとエロティックな場面がいくつもある。けれども、話を少し幻想的に仕立てているのと、コミカル調が手伝い画面ではエロスを感じない。

 

設定はイタリアにある謎の館(ホテル?)で、そこへ泊まっている怪しい人物たちと迷い込んだ乙女の話。撮影地もきっと本当に南イタリアで、ソレントからポジターノ辺りなのではないかと思っている。(wikiで調べたらアマルフィーの別荘だそう)

 

気持ちの良いテラス

 

ホテルは白く、洞窟のような細い廊下が印象的であらゆる部屋に近代の絵画がかけてある。美術に詳しい人がみればあの絵の並びにもなにかしら象徴があるのかも知れない。とにかくたくさんの絵が背景に登場する。

出だしで主人公が「あぁ、これベーコンの作品ですか?」と雑用係に尋ねる。そうすると相手は「ベーコンは明日、明日、今日はないよ」といって出て行く。朝食のベーコンと勘違いしているというベタなやりとり。

 

きっと作品内は沢山の隠喩に満ちているのだろうけれどさっぱり分からない。それでも時折微笑させたり、ひどいと思わせるような場面があるので最後まで観てしまった。

隣で観ていたMは飽きてしまったのかタブレットで「ロマン ポランスキー」と打ち込み検索を始めた。すると「えーっ」という声のあとに幾つかのポランスキーネタを読み始めた。

 

まぁ、ひどい。

 

本人の行なっていたらしい行為もひどいし、逆に少年のころに家族共々うけたナチスからの残虐行為もひどい。その後の不幸もある。

映画を撮らなかったら、もっとおかしくなっていたかもと思わせるような内容。(詳しくはWikipediaを読んでください。いや、読んだら彼の映画は観たくなくなるかも。2018年には米アカデミー協会も除名されている)

 

先日同じポランスキー監督の『テス』をみて画面構成の素晴らしさや背景の美しさなどに驚嘆していたわけですが、その時はまだこのウィキ情報は知らなかった。

 

 

素晴らしい映像が素晴らしい人間性によって作られるとは限らない・・

 

 

戦争で受けた自身の後遺症を、映画を作ることで抑えようとした監督というのが、実は結構いるのかもしれない。

この一週間で二作品を観たわけだけれど、常人には撮れないし常人には想像できない絵があった。そうしたらやっぱり普通の人じゃなかった。ロマン・ポランスキーは安易に想像するような良い人でももちろんなく、映画と結婚した乱暴な夫なのだった。

 

 

 

『穀物と魚』

最近観たことを覚えている映画

ちょっとだけ映画尽いている。

 

『穀物と魚』

そう名付けたい映画を観た。

正式邦題は英語の題名を直訳した『クスクス粒の秘密』という。

原題はフランス語で『La graine et le mulet』(粒とボラの意)監督はアブデラティフ・ケシシュ Abdellatif Kechiche。フランスのチュニジア系移民の二世。

 

内容は移民の初老男性が仕事にあぶれ、一念発起してクスクスレストランを開業。周りを巻き込みバタバタと進む。

 

しかし、一番最初に思ったことは・・

 

可愛い家に住んでいるな。

 

ということでした。

 

主人公は六十代。決して裕福ではなく、船の解体屋で働く老体。

彼は離婚していて、今は再婚相手の経営する寂れた安宿に間借りしつつ暮らしている。

その部屋は二階だか三階にあって、狭いキッチンとリビングが一緒になっている。窓辺に小さな木のテーブルが置いてある。窓からは通りの向こうにある小ぶりな港がみえる。

特別美しい港ではなく、これといって珍しい出来事も起こらない海辺の片田舎といった風情。周囲の建物もお洒落ではないし素敵なボートが停泊しているわけでもない。

彼の部屋からはこの小さな港が見える。

海から通りを一本挟んだ立地にある安宿。小さなキッチン。ぶら下げられた鳥籠や洗濯物、布。窓枠に切り取られた狭い海辺の景色。

 

なんか、とっても普通。

 

『眺めのいい部屋』とかそういうのではなく。

 

人物のクローズアップが多用され、喋り続ける長回し。日々のいざこざ。

役者の肌も普通でいい。カメラ用に丁寧に手入れをしているとは思えないその辺にある肌。奥には銀歯が見えているし、食べたり話したりするシーンでは口の中が丸見えで、所々歯のない人もいる。

なんだかんだと、最後まで見続けた。

 

それで、観終わってお腹が空いたので「クスクスが食べたい」と冗談半分に言ってみると本当に用意してくれた。

数日調子が良くなかったのも手伝って、それは柔らかくて胃腸に優しく、とても美味しかった。

 

他にもロマン・ポランスキーの『テス』とルキノ・ヴィスコンティの退屈な映画を少し、パゾリーニの『奇跡の丘』を観た。

パゾリーニは良かった。マタイ伝に出てくるイエスの言葉以外多くを語らないモノクロの画面と、時折思い出したように流れる時代の異なる現代的な歌声。言葉の省略。そういったものを憶えていられる映画だった。

 

ロマン・ポランスキーの『テス』は、今となってはありきたりな不幸と男女のお話で作られる。しかし、カメラワークが上手く、道もいい。背景の建物や扉、木々といったものに丁寧な心使いを感じる。そういうものを見ているだけでも観る価値はあるし、画面飽きがしない。

霧と泥の素晴らしいシーン。

内容とストーリは問題ではないと感じられるほどの画面がそこにある。

 

じゃあ『お話』はなんの為にあるのか?

 

ポランスキーはストーリーを無しに、背景とカメラワークの映像を作ったら最高なのではと思う。意味を抜きにして夢を夢のまま再生する映画。

 

人間はときとして誤ったものを発明もするけれど、正しいものも生み出す。映画はその数少ない後者にあたる。

映画を観たいという気持ちがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『人間を守る読書』

記録:読み終えた本

 

四方田犬彦著 『人間を守る読書』 文春新書

言わずと知れた映画史のプロフェッショナル四方田犬彦さんによる本の紹介。

 

変わらずの深い学識と考察に満ちているので、勉学を怠って来た側としてはページの捲りにくいところもあります。しかし、これは四方田さんの本では常であるので仕方ない。彼は東大で学び、一方こちらは砂浜ごろ寝だったのだから。

とはいえ、彼の本は読み辛くても何かが書かれているので読んでしまう。(字が印刷されているだけで何も書かれていない本のなんと多いことか)もっと勉強しておけば良かったなと思うのはこういう時です。

 

書評・ブックガイド?

この『人間を守る読書』は別の本を紹介していくわけだけれども、それは本の内容というよりもその著者の視点がなにを露わにするかということの案内に感じます。

書物という巨大なピラミッドを遠くに眺め「これはクフ王の・・」と情報を解説するガイドではなく、彼らの行間から溢れる香や陰影、そこから何を汲み取ることが出来るのかを提示してくれる発掘人の目線。言い換えれば作家がそれぞれの意思を積み上げた「本」というものを読書する。その根源的な喜びや学びのお裾分けと言えるのかもしれません。

 

わたしたちの親世代は、家が狭くともとりあえずピアノを置き、子どもに習わせたものです。モーツァルトになる必要はない。しかし自分たちは戦争があってなかなか音楽を聴けなかったから、せめて子どもにはそういうものを体験してほしい──

──文化をもちたいと思わなければ、それは即ち文化がないということになるのだと思います。背伸びするということ自体が文化なんです。立派なことではないでしょうか──

『人間を守る読書』四方田犬彦  前書きにかえて  文春新書 p.12より一部抜粋

 

 

最後の第4章は100冊を無理に押し込んだ感があり前半に比べると遜色があるのは少し残念に思ったことを付け加えて、終わりにします。