それをめくる

先日、本を探しに

 

数年前、二十以上歳の若い青年への贈り物を探していた。趣味が違うということだけではなく、世代のギャップも手伝って、中々めぼしいものが浮かんでこない。

そこで、あるとき服や物はやめて、写真集をプレゼントすることにした。

 

当時十代後半だった男子にはもしかしたら早過ぎるかも知れない内容の写真集にした。自分が十代の時にこの写真に出会っていたらどんな風に感じたか。性的な表現に興奮したか、それともあまりに生々しいと思っただろうか。またはメチャンコかっこいいと思ったろうか。

 

今はファッションにお熱な青年が十年後にもう一度めくってくれたら嬉しい。

 

そして、これで多分三回目になるであろう贈り物の写真集を物色しに古書店を廻った。

 

古書店

 

ある写真集コーナーを物色していると、やけに安い一冊を見つけた。どうしてだろうと思いながら開いてみた。すると、最後のページ右上に銀色のペンで書き込みがしてある。

 

「Happy Birthday Hirokun 11.23.1998 from Mayako&Michel」  *名前は偽名です.

 

そうか、誕生日にプレゼントされた本なのか。そして、なんらかの理由があって二十年後の現在、また古書店の棚にそれは戻された。

そう思うと、まるで厚揚げから温かい出汁が滲み出るようにじんわりとした感情が広がっていった。

 

誰かの手

 

ビジネス書は二十年も経てば価値が無くなり、廃棄されてしまうことも多々あると思う。その点、写真集はどちらかというと不要になっても捨てられずに次の引き取り手へ渡る確率が多少あるかも知れない。

誰かが過去にプレゼントした本の書き込みに、別の名前をもう一度足して手渡すというのもいいなと思った。けれど、今回は求めているタイプの写真内容ではなかったのでその本は購入しなかった。

 

星野道夫さんの著書に「旅をする木」というのがあって、役目を終えた木がやがて流木となって川を下り、たまたま鳥の運んで来た別の種の養分になり次の場所でまた木が生える。そのようにして、歩けないと思われている木がどこまでも遠くへ旅を続けている。そんな内容だったと記憶している。

 

旅をする本というのもあるだろう。一過性でないもの、いつまでも読まれる文字列や絵、写真。

 

その日、何軒はしごしてもみつからなかった一冊の写真集が、後日地元の古書店で見つかった。

ペラペラとめくっていると、終盤に結婚式の写真が出て来た。

裕福ではなさそうな1940年代の家族が、小さな部屋に集まり新郎新婦を囲んでいる。部屋には配管がむき出しになった場所もあり日常の真っ只中で撮影されたような雰囲気がある。

さらにページを進めるともう一組の新郎新婦が登場する。そちらは舗装されていない土の小道。両脇には草が生えている。道を横切るように木製の椅子が二つ置かれ、そこがゴールであるかのように、椅子の間に紙テープの帯が渡してある。

小道の向こうからは先頭に新郎新婦が立ち、こちら側へ歩いてくる。その後ろに親族や友人が小さな列をなし、椅子とテープで即興的に作られたゴールへと皆で向かっている。手近なもので簡単に準備した、それなのになんとも贅沢で祝賀な雰囲気が漂う一枚。

 

記念写真

 

数日前にたまたま隣席になった人物の話を思い出した。彼は結婚式の写真を撮る会社をしているらしかった。

「日本の結婚式業界はもう下火なんで、すこし別のジャンルにも事業を広げていかないとなぁ」

従業員も複数雇っているらしいその人はそういった。

 

自分達に所縁のない場所で、山手とか白金といった名前を伝えるだけの写真と比べ、なんとも質素で贅沢な瞬間がその写真集にはあった。

さらにページをめくると、最後に小さなサーカスが登場した。

 

夜のサーカス

 

軒先きに立てた柱にロープを渡し、綱渡りでもしているのだろうか。街角に突如あらわれた感のある会場を取り囲むように、人々が円状に集まっている。といってもせいぜい百人くらいか。そして、近隣の建物からは一目見ようと窓から身を乗り出して顔を向ける人々。

 

これにしよう。

 

どこから来るのか定かではない感情が、こそっと動くとても良い写真がある。

 

この本は、いつの日かまた誰か別の手に渡るだろう。気に入らず直ぐ本棚にしまわれるかも知れないし、あっという間に別人にあげてしまうかも知れない。または廃品に出される可能性だってある。

 

それでもきっと誰かがみつける。

 

リサイクルショップや、古本市や、古書店を経て何十年も誰かの手を旅し続けるだろう。そこに最初の持ち主を知っている人間が誰もいなくなった世界があるとしても、同じようにページをめくろうとする人がいる。そしていつの日か、最後のページに「誕生日おめでとう」と記入する日がくるのかも知れない。

 

 

 

 

二人のMへ。そして、素敵なことを思いついたSへ。   20.12.2018

 

 

 

そこまがって

 

odai

 

 

河にかかった橋をデザインしたロゴが素敵なカフェが小台という場所にある。

二本の河に挟まれた三角州のような土地なんですよ、と以前店主がおっしゃっていた。

確かに地図上で見ると、三角地帯。

 

都営荒川線で最寄りの小台駅。

 

 

押すか引くのか迷った扉は左へスライドする重量感のある引き戸だった。

 

扱っているスペシャルティーコーヒーを頂くつもりだったけれど、ミルクが欲しい咽喉もちだったのでラテにしよう、そう決めたのもつかの間クリームソーダを発見。

以前誰かの投稿でとても綺麗なクリームソーダだなと思っていたのでそれにする。

 

 

配色とグラスのサイズ、バランスがなんともいい。

 

お話して、原宿までの出方を聞く。主人的には町屋まで歩いて40分、そこから地下鉄に乗り表参道前が良いのではということ。

 

では、早速歩いてみよう。

店を出て再び橋を渡り、しばらくは都電沿に歩く。

ところが地図をみずとも歩ける表通りは車が多くイマイチ面白みに欠けた。そこで、ここはと思わせる路地を一本入り別の小道へ。

ポツリポツリと商店などが現れる。

 

ティースポットあんみつ姫という渋い喫茶を発見したけれど、餡蜜がそんなに好みではないので入らなかった。逆にソーダスポット クリーム姫であれば間違いなく入店していた。

 

この道をまっすぐ行くと別の方角へ向かいそうなので、さらに細い路地を曲がり、くねくねと進む。

 

程なくして直感が曲がれという道。少ないけれど人の流れや自転車の往来もこの先の吉を示している。

 

見知らぬ町に立ち、行き交う人々がそうとは知らずに出している生活のサインをよむ。

初めて見た人が曲がりたくなるような古い道角というのは、太古から同じような魅力があったのではないか。

 

 

 

 

道はしだいに旧道らしい雰囲気を見せ始める。

 

一軒の和菓子屋さんを見つける。

 

一段と目を惹くのは店内に仕舞われた自転車や荷物の雑多さに反駁するような草団子。ショウケースに鈍く輝く緑の。

ガラスを指先でコツリと叩くと、おかみさんが現れ包んでくれた。

 

 

 

 

裏通りにあるガソリンスタンド。

妙に綺麗に展示しているタバコ店。

狭い公園。

まだ、現役なのだろうか、自転車の止まる昔ながらのゲームセンター。

角の八百屋さん。

 

 

 

 

 

気付くと賑やかな駅前に出ていた。

ここが多分、町屋という場所なのだろう。

向こうには白色の光が眩し過ぎる立派な商店街があるようだった。

 

 

 

 

 

不動前

友人たちに声をかけてみた

 

結果、来たのは一人だった。

 

そもそも、誘う文句に大事な内容を書き忘れた。

どこで、何をするのかといったことを書き忘れた。

リンクを貼るのも忘れた。

 

 

「明日、土曜日かなりアバンギャルドなのが五反田のギャラリー?であります。興味ある人ご一緒しましょう。」

 

それだけの伝言だった。

悪いことに、個々へ送るメッセージでもなく仲間内の掲示板のようなところへ書いた。頻繁に目にするような場所ではなく見るのに日数を要するような。

 

前日だったこともあり、結果ほとんどの人には伝わらず

 

一人だけ来た。

 

もともとその人だけを個人的なメッセージで誘おうかと考えてもいた人物だった。

彼は先出の掲示板のようなところにも反応して、「おっ、どんな感じ?」という書き込みもしてくれていた。

しかし、誘っておきながらそのページをチェックするのを怠った。雑務に追われて、と言い訳をすれば多少響は良くなるけれど、残念ながら忘れていたのだ。

 

すると当日の午後、彼からSNS経由の電話がかかって来た。モバイルWiFiが弱いことを理由に今まで使ってこなかったSNSの電話に初めて出てみた。

しかしこちらはiPhoneではなく、iPad。

どうやって電話に出たら良いのか迷った。

まず一瞬、従来の携帯電話のように耳に当てる方角へ手が動いた。

しかし、なにか違う。

 

デカすぎるのだ。

 

コピー用紙でいうとB5ほどの物体を両手で支え耳に当てる違和感と言ったらない。

迷った挙句、校長先生が卒業生に賞状を手渡すような持ち方になってしまった。そもそもマイクがどの位置にあるのかさえ不明だった。車の通りもあり聴き辛いので肘を曲げ顔面に近付けて話すことにした。

遠くから見たら横向きにしたiPadを舐めているように見えたかもしれない。

 

肝心の内容

 

電話の内容は、実のところ良く聞こえなかった。

車道が邪魔し、

「今日のどんな、」とか

「ボヘミアンラプソディー観に行…」とか

「どこなの」という部分が聞き取れるくらいだった。

なので、待ち合わせの場所と時間を何度か叫ぶようにして濃いめの声で話しかけた。

 

「六時半、中央駅、ホームのセブン前」

「六時半、中央駅、ホーム内セブン前」

 

 

彼は現れた、普通電車に乗って。

いくつか乗り換えを済ませて最寄りの駅に着いた。そこは見知らぬ不動前という場所だった。

五分ほど歩き会場へ。

 

地下だった。

 

ギャラリーかと予想していたらスタジオ、いやガレージという言葉を敢えて使いたくなるような空間。

螺旋階段、十席程度の椅子。壁はグレーのブロック。目立った装飾的な照明もなく、二、三の最低限必要な明かりが灯してある。

 

飲物の提供もなく、喉が乾くならコンビニで買って持ち込むスタイル。純粋にその場所を楽しむ秘密の四角い部屋。

 

リトアニア人とたまたま同時期に来日していたベルギー人、そして細長いこの大地に生きる二人が横に並ぶ。

おりきった帳に反抗し、都会の幕が開く。四人が今夜を始める。

 

隣で友人が真剣に座しているのを感じながら、あっという間に二時間が過ぎた。

 

彼は、早くに亡くなった旧友のことを思い出したと帰りの電車で教えてくれた。

殆どの人がわからないような深い場所へ潜っていき、適応する受け入れ先を見つけることもかなわず、ただ居酒屋の壁を灰皿で強く打ち付けるしかなかった旧友に見せてあげたかったと。

 

終電に近い列車がそれぞれの住処へ人を運んでいく。

その途上で様々な他人が出会い、知人が生まれ、友人や恋人、家族という編成が起きる。

 

 

地元の駅へ着く頃、共通の友人を引っ張ってでも連れてくれば良かったなという意見で一致する。

 

心のそこから人生を肯定するようなものに出会うことはまれで、自身がそれを認知できるまでその深層を見つめていないか、あるいは提供する側が、浮上した海面からこちら眺めているだけなのか、その理由はさだかではない。

 

しかし確実にそれは、ある。

 

 

 

「良かったんだから飲もうよ」

 

そう誘われ、改札を出て行きつけの店へ二人で顔を出す。

もう一軒と周り、お酒の量が増えた。

声も大きくなり飛ばすツバも激増したころ、注文していたカレーライスがきた。

 

一緒に行きたかったなぁという顔が輝く白米の湯気に浮かんだ。

上顎に残った山椒の刺激をなぞりながら、海中の砂が初めて与える指先への幸福について考えていた。