Masters Run

恐ろしいものには恐ろしい足音

今、黒塗りのヘリコプターが二機、頭上を通過していった。

向こうには基地がある、その方角へ。

 

電子イオンで上昇気流を発生させ、エンジンなどの稼働を必要としない飛行機のミニチュア版が完成したと聞いた。きっとヨットのように静かに空を飛ぶことだろう。

 

近所のカレーショップがオープンし閉店した。

 

一旦開けたのだけれど、もう一度内装を変えるようで半月ほど閉まるらしい。

 

 

窓辺に、予想外に降ってきた雨で濡れた鞄と紙類を干すでもなく寄せてある。

既に日数が経過し、水分量的には乾いている。それでもそのまま日々が過ぎたので、今度は埃が溜まり始めた。過酷だ。

 

野菊が枯れて、水仙の葉が勢いを増した。

 

寝起きに体が温まっていくよりも早く部屋を暖めようと、暖房をつける。

ガスストーブ。

上に湯を沸かしつつ。

湯気が上がったところで、茶を入れる。

 

しばし待つ。

 

 

日光が昼に向けて強くなるのに合わせて部屋も暑くなる。

ストーブを止め、茶を入れていたことを思い出す。

ティーバッグの中身、原材料を読んでみる。

大麦、玄米、黒豆、どくだみ、くま笹、くこの葉・・これらに混ざり横文字を発見する。

 

「ギムネマ・シルベスタ」

 

いったいギムネマ・シルベスタとはなんだろうか。まさか首の回らないアクションスターではないだろう。

ふむ、逆から読むとマネムギだな。タスベルシ・マネムギか。

「食べれるし・真似麦」ともとれる。

きっと、食用可能な麦に似た別物なのだろう。要するにアウトサイダーだ。

葉っぱ界のブコウスキーであり、ルー・リードなのだろう。

 

 

眠い。

 

 

窓を開けても眠いということは、これはガスストーブによる酸欠ではなく、もっと重大なことが起こっている。眠気というやつの去来だ。春はとうに過ぎた。

 

春眠暁を覚えず、秋眠午睡を良く覚え。

 

秋は「行く」を「眠る」または「寝る」に置き換える季節なのだ。

例えばこんな具合に幸せは訪れる・・

 

・この陽気だと幌馬車にでも乗ってどこまでも眠りたいですなぁ。

・そんな夢想より、ご飯でも食べに寝ませんか?

・いいですねぇ、寝ましょう。でもそんなにお腹空いてないなぁ。

・どこか他に、眠たいところはありませんか?

・そうですね、この辺だと眠ったことないので、八景島シーパラダイスに眠ってみたいです

・それじゃあ帰りが楽なので車が良いと思うのですが、眠りはどうします?

・景色も眺められるので電車も好きなのですが、眠りだけ電車というわけには・・

・そうですね、じゃあ往復とも電車で眠りましょう

・そうしましょう。ではいつ眠りますか?

・寝るなら早い方がいい。

・じゃあこれから一緒に眠りましょう。待っていて下さい。ちょっと銀行にお金をおろしに眠ってきますから。

・そうですか、じゃあその間に飲み物を買って、ついでにコンビニのトイレへ眠っておきます。

 

 

そういう感じで秋は過ぎて行く。

 

 

ネコが外にある小箱の上で陽を浴びている。夜はどこで過ごしているのだろうか。

庭に落ちていた片方だけの軍手を持ってきたのは君か。

 

 

台風で枯れ気味になったローズマリーの先を切ってあった。そこから新芽が出て、すでに二股に分かれている。

お腹が空いたのに、焼きそばを冷凍してしまった。

パスタを茹でようか。

 

少し気だるいんだ、今日は。

 

Masters Runも近付いているからな。

マスターズ・ラン?

そうだ、今頃ヨーダもオビワンも小走りを始めただろう。

 

寝るなら今のうちなんだ。寝るなら。

あぁ、もうすぐ今年もマスターズランがやってくる。

 

 

 

 

日々これ

日記:11/08/2018

一日二分の尺を二ヶ月撮影して、総合で二時間の作品を作っている話を聞いた。

大きな部隊で人数も多いという。

個人だと、一日二秒製作し、一ヶ月で一分の作品が完成するといったところか。

毎日二秒印象を撮り続け、一ヶ月分を繋げて観る。やってみようか。

毎日は難しいから一日で一週間分、十四秒を撮影してしまわないだろうか。そんな心配は事欠かない。

 

海の中を毎日二秒撮影したって面白いだろう。

 

冬は寒い。

泳がなくても寒い。

手も冷たい。

棒にカメラを括り付けて録画するという手もある。

ただ、海から二分というような立地でない限り、毎日通うのはかなり億劫だ。せめて自転車で五分の距離でないと。

 

それにしたって毎日同じ道を往復すると飽きてしまう可能性もあるし、もしあなたがイスラム教なら「同じ道を通らないようにせよ」という教えがあった気がする。

それなら表へ出ず、家の扉からワンカットを撮影した方が良さそうだ。

 

 

毎日誰かが訪ねてくれる家なら楽だろう。

戸を開ける度に二秒回せばいい。

しかし、人の来ない家はどうする。

水道の検針と郵便配達人以外は木戸を叩かない家もある。

いや、そもそも検針も郵便配達人も戸を叩かない。

 

開かずの扉だ。

 

完成した映像には微動だにしない扉だけが映っている。

天気により多少明暗が変わる。

あまり面白くなくなってくる。

 

何もせず布団に包まっている方が有益な場合もあります。たった二秒でさえ。

 

しかし、我々は知っているはずです。何億秒という人生の中で、知らずに過ごしたたったの一秒がその先の未来を変えることを。

 

先祖のその一秒の閃きや実験が、人間を大気圏外へ運び、カリカリのドッグフードから人よりも高価な餌を食す美食犬を育て、小銭を電子マネーへ変身させてきたことを。

 

つまり、今日の朝一秒をどのように過ごしたか。

 

 

つまり、寝起きにどんな顔しているのかを撮影すると良いのだろう。

 

いや、今日に限ってはもう一秒だけ寝ていよう。

そうやって寝過ごした朝は、撮影などできないではないか。

大変なことだ。毎日というのは。

 

 

 

 

 

 

 

対価万国か

日記:11/06/2018

トタンの音楽を聴いている。

今朝の目覚め。お天気雨から始まり、今は降ったり止んだりしている。

それで、一時雨が降るのを止めたときにトタンに滴る雨粒の音が良く聴こえる。

 

さて、どうしよう。

フリーマーケットの話を書こうか。

 

フリマは人間観察

 

 

以前、明治の漢字だらけの紙ものを出品していたときのこと。

いかにも興味のありそうなおじさんたちが、「いいねぇ」なんて声に出しながらぺらぺらとめくり、箱に戻し去っていった。

同じようなタイプが何名か過ぎ去った後、一人の学生服を来た青年がそれを手に取った。そして、無言で真剣に二、三ページめくったあとに「これは幾らですか?」と言った。決めてあった価格を言うと、即決で「買います」の返事が返ってきた。

手書きで漢字だらけ。現代人の多くは読むことさえ困難なその手製本の一冊をその高校生は即決し買っていった。

いやもしかしたら中学生だったかもしれない。記憶は曖昧だから。

 

別の時、木箱のなかにごちゃっと色々なものを入れていた。

その中からやはり中学か高校らしき学生がSEIKOの古いストップウォッチを見つけて値段を聞いてきた。またもや即決で「ください」と言われた。

もう一つ動かないものがあったので「これもいるかい」というと「欲しいです」というのであげた・・

気がする。

もしかしたら過去の記憶を美談に差し替える思い出媚薬が作用しているかもしれない。そうだとしたら、二個売った可能性もある。

 

記憶は曖昧だから。

 

フリマだし若人が喜んで帰っていく姿は良いものなので、高くしてはいないと信じている。

 

お金と土地というのは本当に良く分からない。

 

この国の多くの人と同じように、生まれたときから「土地は売買するもの」とされている場所で育った。

二軒隣の空き地は家もないし、人も滅多に来ないのに誰かの持ち物ではあった。

子供だったので、そこへ勝手に生えてきた草と戯れ、土を掘ったりもした。

 

民族によっては土地というものは売ったり買ったりする類のものではなく、そもそも大地を所有するという概念がない人々もいる(いた)と聞く。

 

幸いながら、今はまだ、我々は空気を売り買いしていない。

 

それでも可能性はある。

「ちょっとアタシの空気勝手に吸わないでよ!」

 

お金を払えば吸わせてくれるのかい。

 

 

昔、四万十川の畔で泊まったことがある。

 

夕方、近所の人に水道を貸りた。

「ここの辺りは水道タダだから」といって旦那さんは自由に使いなと蛇口を指差してくれた。

冷たくて美味しい水が沢山流れてきた。

お金は発生しなかった。むしろ、晩酌のあてにする予定だったらしいお刺身を持たせてくれた。その味は忘れてしまったが、水道から脈々と溢れ出す水のことはよく覚えている。

 

タダで何かをしてもらったり、

タダで何かをしてあげたり、

するということは、

お金の信用を落とす行為なのだろう。

お金というのは近しい言語や文化、約束の守り方を共有する人間のあいだにある、暗黙の信用で成り立っているわけだから。

 

旅先へ日本の古いお金を持っていった。

 

モロッコ人の古物商にそれを見せた。

ただでさえ見たことのない遠いアジアの国のお金を凝視して「これはいくらなんだ」と聞く。一ドルの十分の一以下だと答える。

 

「古いのか」

「ああ、とても古い」

「使えるのか」

「今は一般には使っていない」

「・・・」

「・・・」

「くれ」

「じゃあ、オレにもなんかくれ」

「そこから選べ」

「どれでもいいのか」

「ああ、全部くれるなら何個でも持っていけ」

「そうか」

 

結局、古い日本のお金はモロッコ人の壊れたような蛇口と真鍮の灰皿に交換された。

 

「また来るか」

「あぁ、またいつかな」

「そうか、その時は寄れ」

「ああ分かった、寄る」

 

そういった思い出は金額にするといったい幾らに換算できるのだろうか。

向こうの紙幣に換算するのかそれともこちら側のか。それともお互いが信用している第三国の紙か。

 

 

雨の日。

今日も無料の音楽が空から。