てんこもり約束

映画を見ました。

 

インターネットでお手軽に見られるドイツの作品で、大金をかけて作ったチープな大作という印象。科学実験でブラックホールが出現してしまい国が壊れていく。

日本だと織田裕二さんとかが主演しそうな雰囲気の映画。

 

ザ・グラビティ   (Gyaoで8/31まで)

https://gyao.yahoo.co.jp/p/01081/v00063/

 

 

大地が隆起し国自体がなくなるような一大事が起きているのに、ところどころに呑気なお色気や非現実的で楽観的なシーンを挟みつつ物語は展開していく。

全体的に設定も貧相だし現実味もないのでボーっと流し観る。

しかし、ドイツのことをあまり知らないこちらにとってはドイツの概要を垣間見せてくれる映像として鑑賞することもできるなと思った。

 

 

*以下ネタバレ含む

 

 

ビールを飲むサッカーファン、マッチョで熱血漢な男といった印象提示もあれば、

離婚や親子の分断

イスラムとキリストという宗教の分断

貧者と富裕層の格差分断

 

そういった社会問題が前半で紹介され、後半は危機で一丸となった人間がお互いを認め合い関係を修復する。

生命の危機を前に親子は絆を取り戻していき、全滅間際の集会所ではイスラムの祈りとキリスト者の祈りが同じ空間、隣り合わせの並列で行われる。貧富の差を乗り越えた乾杯があり世界の社会的分断は巨大な危機を材料に再結合されていく。

 

国のリーダーが最後に行うスピーチの一節。

 

「我々は技術的には創造主を模倣できるまでになりました。しかし、頭脳と精神は未熟であったのです。」

 

頭脳と精神は!

 

 

ここで一冊、最近読んだ本

 

岩波新書 「モーセ」 浅野順一著

 

四十年も旧約聖書を研究してきたプロテスタントの牧師さんの本。

モーセがいかに孤独な人であったかを丹念に紹介してくれる。

 

読後感

 

「モーセは中間管理職だった」

 

即時的には理解不能な絶対の神様と、懐疑心の強いどうしようもない人民の間をとりもち、物事を丸く収めつつ人々を歩ませる管理者。

神様は一般人や信仰の薄い人民からみたら「そりゃないぜ」という理解できない命令を下し、説明不足で行き先を不安にさせるワンマン社長。

かたや人民は、何度も救われているくせに、この社長について行って大丈夫なの?といつまでも懐疑心を捨てないダメな社員。

その間で両者を分断しないように繋ぎとめる男が、モーセだ。

 

定期的に放映される映画「十戒」で時折目にしていた大柄な人物。映画では孤独が描かれていただろうか。あまりその印象はない。

 

夏の終わり、湿気の少ない風に吹かれながら本を閉じると百日紅(サルスベリ)の花が鮮やかに揺れている。

 

世界中の経済が、電気の発明された日や産業革命やガソリンや種々の科学的な発見のあった日ではなく、たった一人の人物が誕生した時を基準にしていることに驚きを感じる。

イスラム教圏でオリンピックやワールドカップの予選が行われてもその頭には西暦が付くのか。

今日の数字 「 2018 」 しかし、その前には必ず目に見えない一人の人物の生誕という隠れた言葉がある。

 

何かが誕生したために分断された世界。それを再結合するために、人間の頭脳や精神はどれほど熟せばよいというのだろう。しかも、世界中の中間管理職がそれぞれの約束を反故にしないで。

 

まず最初に言葉があり、そして約束がこの世界を分断したのかもしれない。

 

 

そんなことをボヤッと考えているときに連れ合いが去年買った秋刀魚のことを横で呟き始めた。

不漁であまり獲れなかったせいか、スーパーで頭のない秋刀魚を買ったことを思い出したようだった。

 

 

「サンマの頭〜、サンマの頭〜、サンマの頭はどこいった〜」

 

 

それはもうほとんど、生命賛歌の聖歌のように思えた。

 

 

 

 

読むための明かり

月が屋根に反射している

 

 

pcの電源を入れて立ち上がるまでの短い時間を読書に当てようと本を開いた。

とても良い本なので一息に読了してしまうのはもったいないと思いながらも、既に半分以上読み終えている一冊。

 

敢えて、pcが立ち上がるまでの短い時間ならば良いだろうと本を開く。

 

ところが、夜風の涼しいことも手伝い、開け放した窓辺で一章、また一章と読み進めてしまい、気が付けばあとがきへ。

 

流石に月明かりだけで読むほど粋ではないけれど、満月のそれはとても強く時間の分からない夜の民家を照らしている。

 

ブックオフには暫く並ばないだろうと思う。

 

この本を買った人は簡単には手放さないだろうし、友人にプレゼントすることはあってもブックオフには持っていかないと思う。

小粋な古書店には並ぶかもしれないけれど、地方都市のブックオフに並ぶには十年以上必要かも知れない。それは思考の違う家族が強制的に部屋を片付けるか、生死の理由で処分するまで本人の手元に残る気がする。

 

そんな本が沢山あれば良いのに。

 

本は究極のジャケ買いだ。

 

音楽よりも選ぶのが難しい。

 

 

フルーツを食べて寝よう。

 

ヨーグルトを少し入れて。種類を多めに刻んだものを。

 

食べているとまるで、ヨガの修行をする都会人になった気分。

 

 

またすぐにこれほどの本に会えるとは思えない。だから、読了は少し寂しい。

けれども、本は必ず良いものが次にみつかる。何冊かそうでもないものを挟んだとしても必ず良い本がまたみつかる。

文字を書こうとする人間が世界中にいる限りこの営みは続く。

そして、光がそれを助ける。

 

街が、世が闇に包まれている時刻であろうと、月夜の明かりにいまだ太陽が健在であることを確認するようにして。

 

だから今日は本のタイトルは書かないでおく。なんでも良いのだもの。それぞれが見つけてそれぞれが大事にする一文があるとさえ知れれば。

 

 

 

 

トムと塩加減

きゅうりの糠漬けを買う場所が三ヶ所あります。

二軒は八百屋さんで、もう一軒は何のお店なのかはっきりしないほど主力商品がボヤけた不思議ショップ。

どのお店でもきゅうりの糠漬けをもらう。一本では流石に悪いので、二本頼む。無い時は大根か人参を代わりに頼むけれど、本心ではそんなに欲しくはない。

 

きゅうりの糠漬けは、おじいさんの家を思い出す。

あの糠の田舎臭い香り、都会とは相性の悪そうな生命を強く感じる香。まだ少々糠のこびりついたきゅうりをビニール袋から取り出すと、何か別の生き物が飛び出したかのように一息にその世界があたりに拡散する。それは否応なく周囲へと流れる。

 

この章でやめておこうと思ったのに読み続けてしまう本があります。

 

出掛ける用事と残された時間などを計算すれば、ここできりが良いはずなのにもう一章先へ進むことを止められない。しかも、読まないことには先が気になって仕方のないサスペンスの類ではなく、随筆だったりする。

すっ、と気持ちよく終わった章の次ページに次のタイトルがある。まだ前章の読後感が落ち着いていないのに、気持ちは先を求め始める。

 

 

ミッション・インポッシブルの最新作「フォールアウト」を劇場で観た。

 

 

イーサン・ハントという特殊諜報員の活躍を描いた大作アクション映画。

主人公はトム・クルーズが演じていて、スタントマンは使わずに全て自分で演じたという前情報もある。

もちろん映画なのでありえないシーンがこれでもかと登場するのだけれど、観終わって気が付いたことがある。

それは、不可能な任務を遂行する特殊諜報員のイーサン・ハントよりも実在のトム・クルーズという人間、すでに五十を過ぎた生身のオジさんの方がありえない存在なのではないかということ。*五十六才だそうです・・

 

劇場で観るというスペクタル感を差し引いても、逆走する車の中をバイクで走り抜けるシーンにはびっくりすることだろうと思う。隣で観ていた人は叫び声を上げたほどだった。

重たくなってきた体を必死に揺すって走る場面や、年齢からくるのか、むくんだ顔も良い。ただ現状のままこの映画を五年十年と続けると、撮影中に大事故が起きないか、そういう終わり方しか出来なくなってしまわないか心配だ。

 

一説にはトム・クルーズが危険な撮影の虜になっているという話しもある。

参考:町山智浩 『ミッション:インポッシブル フォールアウト』を語る

町山智浩 『ミッション:インポッシブル フォールアウト』を語る

 

 

劇中にトムが自ら操縦するヘリコプターの中で「No,No」と言うシーンが何回かあるのですが、観ているこちら側からしたら「いやいや、トムさんあなたのほうがNO,NOそりゃないぜ」をされていますよ。あなた生身ですから。

 

ジョナス・メカスの映画ばかりを見ているわけではないんです。

 

そういえば映画日記の中でメカスさんが「今、私に足りないのはアクションだ。アクション映画がたりない」とつぶやく日があったと思い出した。

今回のトムを劇場で観ればしばらくアクションはいらないだろうから、次は落ち着いてのんびりとした映画でも鑑賞しよう。

 

チャップリン映画の脇役がとてもひっそりと素晴らしいように、ミッション・インポッシブル「フォールアウト」の脇役、というか顔も映らない端役のドライバーたちにも盛大な拍手を贈らずにはいられない。数センチ間違えば主役を轢き殺しかねないギリギリの運転技術は、何もカーチェイス好きのアメリカ人でなくても惚れ惚れとするほどなのだから。