最初のニドメ

息子さんとは時折、スーパーの出入り口などでお会いします。

 

と、その母親に伝えた。

 

お母さんのほうと会話をしたのは十数年ぶり。

語尾や相槌、驚く仕草になんともいえない特徴がある。

その様子を面と向かって聞くたびに息子さんと同じ音、同じタイミングだなと思う。

 

新しいことを始める予定だという息子さんの話をひとしきり聞く。

 

 

今日の虫。

赤い蜘蛛と腕っ節の強そうな黒い二の腕を振り上げる蜘蛛。

 

 

友人から電話。ペンキの話。

 

 

近くにできたらしい店を覗くも閉まっている。昨日は外に自転車が置いてあった。

 

打ち合わせ一件。新規要件一件。

 

寄り道。物色。イギリス製1999年。100円。

 

 

ケーキ屋さんの前を通り過ぎる。プリンがのぞく。

隣の社長と道ですれ違う。ラジオの話。

 

カメラのレンズを探す。オレンジジュース。

pc。

ジャクソンズのレコードを聞く。

 

 

喫茶店へ。蝶ネクタイの男性。パイプ。縦縞のジャケット。重たそうな革の鞄。

 

後ろには声の大きな人。タバコを買いに行ったまま失踪した待ち合わせ人らしき客人は結局戻ってこなかった。

 

 

塗り残し。別の鞄。持ち手。ベーコンを焼いた香り。

 

 

窓の外を通り過ぎる先輩。

スナックから老人の声でひょっこりひょうたん島の歌が漏れる。

二階に出来たというカフェの様子を見る。

カレー780円。とってつけた裏口。

 

隣のビルからドラムの音。

マッサージご案内の路上女性。

 

しゃがんで携帯をいじる若者。ステーキ屋さんに吸い込まれていく観光客。

 

古いアーケードの屋上から手を振るアメリカ人。

 

 

プチトマト198円、豆腐100円、バナナ138円、小さくなったブルガリアヨーグルト158円、別のヨーグルト98円。

 

 

ラジオから異音。高周波。

おろしたての新しい靴下の跡くっきり。

 

 

2018/05/12

 

 

 

ほとんど全ては忘れてしまうことが分かって

多くの人が日記をつけていた。

 

紙に、その数日の出来事や感じた事柄、印象などを書きとめる。

日記は書いてもいいけれど、つけるほうが似合う。

小説は書くものだから「小説をつける」とは言えない。

同じように論文やメモもつけるわけにはいかないのです。

 

日記をつけるとはなんだろう。

 

あまり深く考えてはいないけれども、忘れるには勿体無い、そういったことを紙の上に貼り付ける行為なのか。

糊でレシートをとめるように?そう言えば確かに帳簿は「つける」という。

帳簿はある期間の入出金や物の出入り、取引を忘れてしまわないように、または後日間違いのないことを他者にも示せるように、「つける」

ということからすれば、日記はある期間の思い出や出来事、思想や印象を忘れてしまわないように、また後日に誰かから問い合わせがあった際に事実誤認なく伝えられるように「つける」のか。

 

実は、今、猛烈に眠たい23時だ。

 

 

早く寝たいのだけれども、これを書き上げてしまわなければと一人信じている。

「書き上げたい」となっているからいけないのかも知れない。このコンピューターで打ち込んだ文字列だって日記のようなものなのだから、もっと「つける」の側へ寄らなくてはいけない。

 

そうだ、もっと軽やかに今日あったことを淡々と糊でとめていこう。

 

 

朝、ゴミを出したあと草の裏にいる虫を探す。

今日はあまり見つけられないので蟻やダンゴムシをしばし観察する。

パソコンの仕事を少しする。

 

 

午後出かける。坂を下っていると下から上ってくる人と目があった。金色と黒のジャージのような上着の見知らぬ男性。そのまますれ違う。

いくつか用事を済ませて、下町の目抜き通りを歩いているとまた先ほどの金色と黒のジャージのような上着の男性とすれ違い、やはり目があった。

「さっき坂を上がって行ったはずなのに、なんでここを通るのだろう?」と思っていると、相手もそんな風な顔をしていた。

喫茶店へ寄る。たまに会う知人と隣席になった。

この後電車でどこかへ行ったものだろうかと考えている、ということだった。

私は先に出て、本屋へ寄ってから家へ帰る。

 

 

夕方、駅前を家路へと歩いていると、坂の上からパッくん似の知人が降りてきた。

久し振りに会ったので短いながらも立ち止まって挨拶。握手までした。相変わらずの好青年。

そういえば、今朝、軒先きで落ちた蜂の巣に蟻が群がっているのを目撃した。

蟻もよく見れば、お互いがすれ違う時に何か挨拶のような一瞬を過ごしている。

それからすれば、我々が駅前で握手していたのもごく普通のことだと思う。

 

 

家について、買った古本を眺める。ISBNが記載されていなかったのでアマゾンで検索してみると中々高い本らしい。床に寝かせてあったのを立てかけることにした。

 

 

出かける前に冷凍庫から出しておいた挽肉とピーマンを炒めた。ご飯は1.25合炊いた。

サランラップを久し振りに新しく買ったので、古いのを思い切り使った。

ラジオをつけたけれど、邪魔なので直ぐに消した。

座ってタイピングを始めた。

 

 

ここ数日嘘のように寒いので部屋でマフラーを巻いている。ストーブも端にあるけれど頑なに着火しないで過ごす。

少し本を読んだ。大先輩に頂いた本「どこにもないところからの手紙」

間に紙を挟んでしおりとしているけれど、途中で読者カードのようなハガキが出てきて二枚とも挟むことになった。

 

 

眠気と戦いながら再びパソコンを続ける。

 

 

もうそろそろ良いのではないかと思っている。

 

 

2018/05/11

 

 

今週見たもの

何かを見たということは

何かを見なかったということの確定だと

文学世界の誰かが言っていると思います

 

もちろん、もっと単純に現実生活でもそれは顕著で

子供がどんなにぐずったところでドラえもんとキテレツ大百科は同時には見られないし

ナイトライダーと特攻野郎Aチームも同時には味わえない

左目でウィリアム・ブレイクの詩を読みながら右目でエミネムの歌詞カードを追いかけられたらどんなに楽しいだろうか

 

でも人間って信じられない機能を秘めているから

鍛えれば管楽器の奏者が息を吸いながら音を吐くことができるように

左右の目で、左右の脳で、別々の出来事を同時に処理できるような人がいるのかも知れない

 

しかし、そんな器用なことは誰にでも出来るわけではないし、

両目で見ても忘れて行くことだらけ、消えて行くことだらけ

ある意味それは気持ちが切り替わって楽に生きられる人体の機能なのだろうけれど、やはり一抹の寂しさはある

 

ということで、「今週見たもの」というのを作ってみた

 

 

描いてはみたのだけれど、描いている間に陽は落ちたり上がったりして

あっという間に時が過ぎたので、

「今週見た」どころか「数週間前に見た」ものになってしまった

 

まいっか、

 

工事中の内装の色味とか、季節外れの毛皮を嬉しそうに試着する人だとか、初めて観察したアマリリスの雄蕊と雌蕊のカーブだとか

 

そういった些細な何かを感じた瞬間というのはとっても愛しい

 

でも、あっという間に消えちゃう 目の前からも記憶からも

もし、専属カメラマンがいたら「今撮って!」「はい、今そこ撮って、雑草抜いた次の瞬間」「一切れのケーキが倒れたそこを!」などと叫びまくってシャッター切ってもらいたい

 

それは他愛ない日々の一コマだから他の人には価値も興味もなく

 

知られることも、見られることもない

 

 

当人にとってはどんな映画よりも傑作でアカデミー賞なのに

 

 

だから思い出したい

砂つぶになる前のわずかに許された時間の中で

 

あるNYの映像作家が「三脚立てている暇がない」という意味が本当に良くわかる

 

「人生は三脚を立てている間に過ぎて行く愛おしい時間の連続」なんて言ったらちょっと大袈裟だけれども

 

目や感情はそれを追いかけて一瞬記憶してくれる

 

部屋の片付けや引越しの押入れ整理が得てして進まないという現象はそこから来るのではないか

まるで別人の持ち物のようにして忘れていたささやかな過去の出来事が、古い服や懐かしい香り、一枚の古写真、ノートの走り書きや落書きなどによって呼び起こされ、やはり自分自身に間違いなく起こったことだったのだと再読み込みされて━━

 

なぜこんなことを書き始めたのか、すでに忘れ始めているところから考えれば

また時々こうして「今週見たもの」というのを残しておいても悪くはないような気がしてはいます。

 

「今週、何見ました?」

それとも

「何から目をそらせました?」

というような自分に向けて