不規則ポッチ

その町の曲がり角ひとつ

 

その道が好きなら、そこを歩いて道を守る

 

その店が好きなら、そこへ顔を出して

 

そのお酒が好きなら、そのお酒を飲みねぇ

 

その席が好きなら、そこへ腰掛けて

 

という風に、住人というのはそれぞれの道の灯台守を毎日している

 

だから、通い慣れた道が突然通行止めになっていたり、

砂利道がアスファルトになっていたり、

逆にアスファルトが剥がされて土が見えていたり、

夕方まであったはずの公衆電話が翌朝なくなっていたり、

伸びていた道端の草が刈り取られていたりすると、

 

とても寂しい

 

あったはずの小石ひとつがあの場所にない

 

いつもの場所にタクシーが一台もいない

 

君のバス停やゴミ捨て場は撤去されました

 

雨脚を予測しようと覗き上げた場所のアンテナが役目を終えました

 

歩道を燕のフンから守る板は取り外されました

 

名もなき人がたった二段上がるために拵えた岸壁への階段も

 

駐車場と市役所の間から眺める海への小窓も

 

住人はその町を気に入って、毎日灯台守をします

 

玄関にぶら下げておいた他人には糸くずに見える何かも

彼らが見ることによって存在しています

 

車止めの石へいちべつを毎日くれて

 

コンクリートの染みを毎日踏んで下さい

 

決して入ることのない対向車線にある店の灯りを毎日眺め

 

それによって、

それによって、

 

遠くにはいかないように

 

突然すべてを刈り取るような伐採が起こらないように

 

それでもなければ、思い出さないくらい跡形も無く徹底的に消して下さい

 

それでなきゃ、

 

明日の朝をどうやって通り越したらよいのか

 

あの場所がいつまでもありますように

 

それぞれ

 

全ての住人の視線によって生かされる名前のない一角が

 

明日も同じに、ありますように

 

 

 

穴 Hotel

寂れた商店街のドラッグストアで、クロワッサンを買いました。

6個入りで189円という安さに旅の思い出が蘇ったからです。

 


 

蒸気のような音をたて、列車はヨーロッパの洗練されたイメージとはかけ離れた駅に到着した。

 

全日まで過ごした町は保養地としても著名だったが、今日の町は大分騒々しい。

その差異に驚く間もなくインフォメーションで地図と宿の場所をいくつか教えてもらい、さっそく出かけていく。

というのも駅前は昼間だというのに物騒な雰囲気があり、アフリカとヨーロッパを足したような新しい国の姿をしていた。

 

 

 

スマホで宿が予約できるという技術ははまだ発明されておらず、宿を予約するには電話か飛び込みが主流だった。朝食付きという安宿を幾つか検討したあとに結局駅の近くに宿を決めた。

慣れない外国語を公衆電話で聞き取るのは難しかったし、二軒目は売春宿だった。

 

元気な時は気に入った宿を見つけるまで歩きまわったものだけれど、どの道直ぐに出発するつもりだし物騒だといえども、一刻も早く荷物を下ろしたい気分のほうが勝る時があるものだ。

 

駅の正面を露天商に沿って歩き右手に折れると小さな地元民の為の広場がある。その一角に宿が何軒かあった。鋭い目つきをした男が複数いるが、突き当たりにはスーパーマーケットもあり、総菜屋やカフェも近い。

 

その宿は二つ星ホテルの数軒先、看板もないアパルトマンの三階にあって、勿論地上階に受付などはない。ただ堅く閉ざされた鉄の扉と黒ずんだインターフォンがあるだけ。

そのインターフォンの表示板から目当ての宿の名前を探し、ボタンを押す。

担当者が出て、なにやら言い慣れたセリフを早口で喋る。用件を伝えると鍵がガシャンと音をたてて解錠され薄暗い階段を上る。

 

陽の光りが苦手そうな受付担当の男が扉の向こうに現れ、部屋を見せてもらう。パスポートを提示し二泊分の宿代を支払う。

 

「朝食は込みかい?」

 

青白い顔をした男がぽりぽりと頭を掻きながら答える。もさっとした髪がどことなく映画監督のロベルト・ベニーニとタランティーノを足したように見えなくもない。

 

「あぁ、コルネットとコーヒー。コルネットは籠の中。コーヒーはそこの機械で自分で入れてくれ。」

「そうか、ありがとう。」

 

受付の時に床へ下ろしてあった鞄を持ち、部屋へ向かう。

ベニーニが背中越しに声を掛ける。

 

「7時から9時までだ」

 

固めのベッドへ靴を脱いで寝転がり背伸びをすると、緊張がほぐれたのが分かった。

そうか、朝食の時間のことか。

テレビではMTVがレッチリのOTHERSIDEを流していた。

 

 

翌朝、期限ぎりぎりの時間に目覚めて受付へ朝食を受け取りにいった。

自動のコーヒーマシーンでカプチーノと書かれたボタンを押し、紙コップにベージュの液体が注がれるのを寝ぼけ眼で待つ。

籠にあるというコルネットとはクロワッサンのことだ。

といってもパン屋さんが焼きたてを持って来たわけではなく、スーパーで売られているような個別に包装された袋入りの量販品。

 

「これのことか・・」

 

まさに安宿。

席を外していた受付係が奥の扉から出て来た。しかしその姿は色白のロベルト・ベニーニではなく、日に焼けて健康そうな肌をした女性だった。

 

「バッド・カプチーノ」

 

彼女はそういうとお茶目に微笑んだ。

 

部屋へ戻り、カプチン修道界から名前をもらったという熱い液体を飲み、コルネットと書かれた袋を開ける。

中にはヘーゼルナッツと低品位なチョコクリームのクロワッサンが入っていた。

扉を開けて直ぐにでも落ちそうな小さなバルコニーから広場を眺めると、強く指す太陽の中で賑やかな市が立ち、客寄せの声と寝坊助が遅れて準備する音、常連客とのやり取りがそこら中で聞こえた。

 

「悪くないな」

 

三人乗りバイクのクラクションが響き、遠くのロータリーからは長距離バスが次の目的地へと出発したようだった。

日陰で暗がりになった小さな隙間から鳩のつがいが羽音を響かせて飛び立った。

誰かは走り、誰かは歩いていた。

 

 

二日の予定だった滞在は結局二週間に伸びた。

毎朝あらゆる場所でコルネットというチョコレート入りクロワッサンを食べたので美味しいクロワッサンの見分け方も心得た。

美味しいコルネットには穴が空いていない。

パンの上にも底にも穴が空いていないコルネットはどこで食べても美味しかった。

そんなちいさな秘密は二日間の滞在ではきっと見つけられなかったに違いない。

 

起き抜けに顔を冷たい水で洗って拭い、カーテンを引く。

南向きの大きな窓を開けると、10月の割に半袖でも充分過ごせる暖かな陽射しに目眩を覚えた。

 

ここは横須賀だ。

 

時折この街に響く汽笛が鳴ればもっと劇的だっただろう。

 

テーブルの上にはドラッグストアで買った安いコルネット。

その表面には二カ所ほどチョコレートを注入した穴が空いている。

しかし、何も美味しいものだけがこの人生の素晴らしさを物語るわけではない。

安価な油の味がするヘーゼルナッツ入りチョコクリームが今朝、どこか遠くへ旅立たせたように。

 

 

 

鯨が主役ではなかった夢について

またしても夢の話

昨晩見たのです。

 

馬堀海岸という、現在ではコンクリートで固められた、どうということのない岸壁があります。

その岸壁から海を眺めていると、ざわざわとした人だかりがあって、「なんだなんだ」と、そちらを注視してみました。

 

すると、鯨が護岸すれすれを泳いでいるではないですか。

シャチらしき姿も見えて、総勢で5〜6頭の大きな鯨たちが直下の海面を行き来しています。

 

すると、群衆の中からスーツ姿にメガネをかけた、いかにも若い研究者らしき男が前へ躍り出て、服も脱がずに海へと飛び込みました。片手にアタッシュケースらしき鞄を持ったまま。

 

「なんという研究魂だ」「彼は海洋学者なのだ」というようなざわめきが辺りを取り囲みました。

 

すると、先に飛び込んだ若き研究者よりも幾分年を経た別の学者肌の男達数名が、前に出て「しかたないなぁ」というような表情をしました。

しかし、その「しかたないなぁ」というのは怒るというのではありません。一途な研究魂で先に飛び込んだ彼に、若かりし自分の果たせなかった何か、諦めてすでに忘れてしまおうと思い、普段は開けない脳の引き出しの奥に、人知れずしまってある何か、その裾を引っ張られて少し青臭く照れながらも「嫌いじゃないな」という、はにかみのようなものでした。

 

そして、同じ様な微笑みをたたえた5、6人の学者肌の男達が、スーツのまま次々と海に飛び込んで行ったのです。もちろんメガネも外さず、鞄を片手に。

 

少しの間、彼らはメガネをかけた顔を水面につけたり上げたりして海中の鯨を観察しているようでしたが、護岸にいる我々には既に鯨よりも彼らの方が気になり、彼らの方がより英雄的でした。

 

暫くすると、そのスーツ姿の一団は何事もなかったかのように南の方へそのまま泳いで行きました。まるで普段から少数の群れで生活している海洋性の生き物のように。

 

我々護岸の住人は、ある種の憧れをもって彼らを無言で見送りました。

 

誰かがぼそっと呟きました。

 

 

「どこへ行くのだろうか」

 

 

次第に小さくなって行く彼らの背中をみつめながら答えました。

 

「あちらには自然博物館があるのですよ」

 

「つまり、仕事ですか?」

「えぇ、彼らは研究者ですから」

 

呟いた男は納得した様な顔を縦に頷かせました。

 

「そうか、出社か」

 

夕日とも朝日とも判断のつかない美しいくぐもった陽の光りが水面の闇に溶けていました。