そちら側から眺めるあちら側

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 歯科医を午前中に終え、東京湾を跨いで千葉を追いかける海岸線を車で走っていた。今や十月の数日のみに許された健やかな気温と空気。千葉の上空には雲があり、向こうの海辺には海面が温まりモヤが出ていた。行き先を変更して駐車場に車を戻し、電車へ乗った。

 ビジネスマンの多い横浜の関内でランチタイムギリギリのスペインレストランへ飛び込みお得なセットを頼んだ。その前に「海鮮丼セット800円」や「洋食屋さんのステーキセット」という看板をやり過ごした。前菜の盛り合わせと魚。相方は肉。小鉢に少しだけパエリアが盛ってある。温め続けたようなコーヒーを食後に飲み店を出た。

 久しぶりに中華街を歩く。平日とはいえ活気を取り戻した人出。来るたびに取り残されたような埃をかぶった雑貨が少しずつ減っている気がする土産物屋、中華食材屋をひやかす。通りに面した外の棚で乾燥デーツを見ていると接客のおばちゃんが近付いてくる。「何をお探しですか。ああそれなら中にありますよ」という言葉に釣られ、相方があっさりと店内に吸い込まれていく。改装せずに何十年も営み続けている雰囲気の暗く煤けた店。包装を超えて溢れる香辛料の香り。店内はひんやりとする印象で、灯りはほとんどつけていない。外の大賑わいに比べ静かで狭く、別の国のようだ。

 おばちゃんはクラゲの頭を勧めてくる。前菜に提供されるような細い紐状ではなく、拳大の塊。「へー、」と思いながら眺めていると「それは烏賊でいうとゲソ」と言われ頭が混乱する。店内の棚からサンザシの袋を取り上げて眺める。少し量が多く持って帰るのが億劫だなと思っていると、「隣のは同じ材料で小さいです。安いです。」と、おばちゃん。それは確かに小さいが、別物で飴玉のような包装。さらに奥から別のおばちゃんが出てきて声を発する「それはね、ジャガイモでいえばポテトチップス、そっちの大袋のはポテトスティック」再び「へー、」と答えながらも頭にはまた「?」が浮かぶ。

 気が付けばサンザシの大袋とスパイスや何やかんやを購入し、喧騒の溢れる通りに再び戻っていた。若人が串刺しになったシャインマスカットに飴をコーティングした、リンゴ飴的なものを食べ歩きしているのを眺め、それがイチゴと交互のものがあることを確かめ、値段が一串五百円であることを確認しながら橋を渡り元町へ抜けていった。

 普段通らない道に光や美しい蛇行、誘うような雰囲気を感じることがある。相方は目的の坂道へ行こうと粘ったが「いやこの道にしよう、きっとこの先で同じところに出られる。すごくいい道だよこれは」と引き下がらずにその小路へ入る。午後の静かな通りを、割烹着を着て業務用の大荷物を肩に担いだ男が歩いていく。倉庫か事務所があるのだろう。

 鯉の水溜めや営業を終えたプールを通り過ぎ、丘を登って邸宅を眺め公園へ出た。薔薇園には、もうないだろうと思っていた薔薇がまだ咲いていた。種類によっては既に大きなローズヒップを膨らませている。手をかけ贅沢に植え込んだ幾多の植物を眺め、香りを嗅ぎ、時折ベンチで休んだ。

 昔と変わらず今でも恋人たちの佇む丘の上の公園から横浜の港。巨大な橋。赤白の工業地帯。暮れ始めた空。若い頃その先にアメリカを、憧れの南米を感じていた海。

 暗くなり始めた丘を下り、元町のユニオンでジンジャエールを買う。ベンチで炭酸を喉に当てる。近所の店では「幻のワイン販売中」と書かれたプラカードと青いワインボトルを店頭に並べている。足が疲れているので電車で横浜へ戻る。乗り換えの改札で旧友の顔を見たくなる。相方にそのことを伝えて途中下車し、友人夫婦の営む焼き鳥屋へ寄ることを決める。夕方6時前、逗子行きの急行列車が人々を運んでいく。「次は上大岡、上大岡です。」座れた椅子を立ち上がり、帰路を急ぐ人々に紛れながら改札を出る。しばらくぶりの商店街が、信号待ちの横断歩道の向こうに輝いている。幾多の背中が影になり青のサインを待っている向こうに。

ふるえてのぼりくだり

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オペラを観た。といっても映像で。マリア・カラスのドキュメント映画。彼女の人生の後半を、残っているライブ映像と写真、本人のインタビューで振り返るもの。満席になれば二千人は下らないだろうという規模の文化施設。横幅15m近い巨大なスクリーンに映し出された彼女は厚化粧な日もあれば、近しい人が撮影したことが知れる素顔なものまである。一人の人間の見せる表情の広さ。

その日の朝は乗る予定より二本早めの電車に乗った。お腹が心配だから一本早めに乗ろうと思って出発したのだけれど、なぜか早足になってしまい、それを止めることができず、気が付けば二本前の電車にぎりぎり間に合ってしまった。後ろから走ってきた防衛大学生と共に列車の最後尾に息を上げながら滑り込んだ。

祝日だったので座れた。それでもイヤフォーンをはめて朝のイライラが漂う世界にシールドを張り巡らす。主に音楽を流す外国のラジオ。80年代や90年代のイタリア、知らない曲。雨が窓を斜めに濡らしていく。上大岡を過ぎてビルが増える。低い雲に上部を隠した建物。水滴が横移動をしながらゆらゆらとガラスを下っていく。90年代のロマンティックに溢れたイタリア歌謡曲。試験中なのか、問題集を読む若い人。その隣の祝日のスーツ男。

最寄り駅のコンビニに入ろうと思った。雨足が強い。落ち着いてコーヒーを飲む場所もなさそうだったのでスターバックスにする。紙コップに入れてもらったホットコーヒーを蓋をせずに飲む。海外からのお客さんたちが半数以上の店内で、静かに響く彼らの音声に耳を傾けながら朝ご飯がわりのコーヒーを飲む。レシートには「本日中はもう一杯、安く飲めます」との宣伝が印刷されている。

諸々が終わり、昼食を済ませて午後になった。いよいよマリア・カラスが歌い出す。CDでしか聴いたことのない彼女の歌声が大音量で響く。とても一人の人間から出されている声色だとは思えない音の振動。彼女の上の歯並びが真っ直ぐに近いことに初めて気が付く。ほとんど全ての歯の長さが同じなのではないかと思われる直線的な歯並び。鼻の大きさ。巨大な瞳。NYでの凱旋ライブのために地べたに座ってチケット売り場に並ぶ二十歳ほどの青年たち。何時から、そしてなぜ並ぶのか尋ねるインタビューアー。「二十世紀最高の歌い手だからだよ!」
そして、1977年の死。

帰る前にレシートを使って、安く手に入るコーヒーを飲もうと思っていたのに、まるで朝と同じようなそそくさとした足取りで自動改札を超え、気が付けば列車内の席でスマホの電源を入れ直していた。東京という街から一目散に離れるようにアマゾンプライムでダウンロードしてあった映画を再生し、イヤフォーンを耳へ押し込んだ。また雨が降っていた。でも帰りは車窓をほとんど眺めなかった。小さな画面の中で、雨に髪を濡らした登場人物たちがガラスを割りながら近未来の世界で戦っていた。

唇が覚えているもの

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夜の雨の乾き切らない湿った道を、工事車両が通り抜ける。「漏水の工事をします」という看板が設置されていたのを思い出す午前8時17分。昨日は曇りで、時々小雨が降った。海岸通りを車で走ると、沖の岩にぶつかる波の飛沫が白く輝いている。海の大半は降雨のためか、いつもよりやや緑を帯びていて静かに濁っている。午後の明るい光を雲が遮り、世界は灰色気味で飛沫の美しさを際立たせる。


坂を下ったところにちょこんとある野菜の直売所を車窓越しに覗くが、今日は何も置いていない。午後の遅い時間ということと、畑の入れ替え時期ということもあるのだろう。そのまま車を走らせて、地元では大手の部類に入る水産会社の店へ向かう。普段は寄らないが、こういう直売所がどこもしまっているようなときにそこへいくと野菜が売っていたりするのだ。卸しでの水産を大きくやっているからか、一般の客を相手にしていないような値付けと質で、魚の方は買う気も起きない。毎回発泡スチロールに入った魚コーナーも見てみるが、濁った目の”鮮魚”が少しばかりあるだけだ。外に陳列された一袋150円、二袋で200円と書かれた茄子と甘長唐辛子、ピーマンを買う。他に芋類が大量に並んでいる。


急に寒くなったので鍋が食べたくなる。知人に頂いた手作りキムチがある。そのまま食べるのが最高に美味しいのだけど、今回はそれを鍋にする。
下拵えをしていると、相方が芋けんぴを食べ始めた。それも気温が下がったからなのだろう。数日前にも一袋買ったはずなのに、それは既になく、水産会社のレジ横にあったものを購入したのだ。それはマックのフライドポテトのようなスティック状ではなく、輪切りにしたポテトチップスのような切り方だった。それをほとんど一人で食べてしまう。何かいけない物質が入っているのではないかと思わせるくらい、芋けんぴを止めることができないらしいのだ。
「砂糖と塩と油、ポテトチップスにお砂糖を振ったようなものね」という。
そして時々思い出したように、こちらの口に一枚それを突っ込んでくる。
「結び方で開けたかどうかわかるからね」と言って、ビニール袋を硬く結び風呂へ行った。そのまま朝まで開けなかった袋を眺めながらノートパソコンのキーボードを打っている。

朝のコーヒーを飲んだ後に相方が芋けんぴの袋を手にする。
「開けたでしょ」
昨晩から全く触れていないビニールに入れた芋けんぴの結び目。
「自分で結んだからわかるんだもん」
芋けんぴに興味がないので、昨日から一度もそのビニールにもチップス状の芋にも触れていない。
「結び方がおかしい、食べたんでしょ?正直に言っていいんですよ」
あなたが口に押し込んできた昨夜の芋けんぴ以外一枚も食べていないことを、その押し込まれた唇で伝える。
芋けんぴには絶対に何かいけないものが入っているのだろう。相方は疑いの眼差しを解かぬまま、一生懸命袋の結び目をチェエックする。そしてついにその袋をあけ、いくつか口へ放り込むと満面の笑みを浮かべている。
「お昼はさ、残ってるジャガイモ揚げていい?フライドポテトが食べたいの」
スマホとタバコ、その横に芋けんぴの袋を置いて放さない相方が秋を告げる。

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