上空にそれぞれ夢の香り

薄いピンクとベージュを足したような淡くくすんだ色のコーヒーカップとソーサー。二口ほど残った中身。白いカーテンが微かに揺れている向こうで鳥が朝の囀りに忙しい。

前回は歯を抜いた話だった。その後、仕事で宮崎に行った。とあるスポーツ競技を撮影するためなのだが、同僚と三人、羽田で待ち合わせをした。リーダーが飛行機が久しぶりらしいのと、荷物が多いので横須賀中央駅で待ち合わせることになった。電話で乗る電車のやり取りをしていたのだが、彼がいう時刻表は川崎だか蒲田で乗り換えてモノレールに乗って羽田へ向かうルートになっている。「えっ、ちょっと待ってください。モノレールって何ですか?羽田なら京急一本でいけると思いますよ」と伝え、こちらで調べ直して後でかけ直すことにして電話を切った。

蒲田からモノレール?それか川崎からバスというルートもあるとか言っていたな。いや、何を調べるとそんなルートが出てくるのか逆に興味が湧く。待てよ、とはいえこちらも羽田に行くのは久しぶりだからモノレールに乗らなければ行けなくなった可能性だってゼロではない。取り残されているのは自分かもしれないのだ。そういえば十数年ぶりに食べてみようかと思って入った牛丼のすき屋で、タッチパネルの操作がわからず退店したことがあったではないか。

恐る恐るパソコンで乗り換え案内を開き、「横須賀中央〜羽田」と入力してみる。まるで得体の知れない巨大ロボを動かすスイッチを押した後みたいに神妙な面持ちで画面を見つめる。見つめるというほどの時間もなく、横須賀中央〜羽田空港第一第二ターミナル駅の経路が表示される。中央で乗車し、蒲田で向かいのホームに一度乗り換えれば到着するルート。

安心と共に少し残念な気持ちが起こる。モノレール、どこを走るのだろう。中空にぶら下がったモノレールの個室から羽田に発着する飛行機群を眺める。眼下では巨大な飛行機が地上での行き先案内人に誘導されている。彼は手旗信号でパイロットに合図を送っている。蛍光のチョッキをまとい大袈裟な身振りで腕を広げ、「右です、右で〜す」と方角を指し示す。先に到着していた別の飛行機からはすでに荷物が下ろされ、特殊なカーゴでスーツケースが空港内へ運ばれているところだ。もっと遠くには今まさに離陸した飛行機が音を置き去りにして車輪を地上から浮かせた。背後の防風林をとろけさせながら。

撮影も無事に終わり海にほど近い宮﨑の空港から羽田へ戻る。

「帰りの飛行機は満席だったので席がバラバラです」

同僚がそういうのを聞いて少し残念そうにしていたリーダーは、他の二人より少し早めに寂しげな背中と共にゲートへ案内され、先に機内へ入っていった。後の案内を待ち、遅れて席へ行くと、リーダーの隣だった。もう一人の同僚も一列後ろなだけで席は近かった。

「なんだ、みんな近いじゃ〜ん」と先に座っていたリーダーは安心したように明るい声で笑いながらこちらを見上げた。

上空で飲み物が配られる時間になり、機内には強制的に温められたコーヒーの香りが充満する。客室乗務員が我々の真横に来て注文をとる。「お飲み物はいかがでしょうか?」
乗客がそれぞれ持ち寄った手荷物や土産物、シャンプーの残り香や、機上で働く彼女たちの労働の香りが混ざり合い、むっとする熱帯的な香気が一段と濃く鼻先を漂う。飲み物にかまわず、すでに目を閉じている乗客たちの頭上を、幻想的なモノレールが車窓を七色に輝かせ走り抜ける。

ミネラルウォーターいんざすかい

..

夜中に回してあった扇風機は止めたまま、静かな午前中に目覚めた。窓の色は灰色、ガラス越しの空の色。手洗いを済ませ、台所の小机の上にノートパソコンを置いてこれを書いている。冷蔵庫が小さく継続的に唸っていて、時折ぷくぷくと水泡の発生するような音がする。


先週のことだ。歯を抜かれた。親知らずだ。渋々とはいえ同意のもとだったので「抜いた」が正しい。でも本当は抜くつもりではなかった。最初は治療をお願いしていた。「抜く選択肢もあるけど?」と治療前に聞かれたが、まだできる限りはとっておきたいし、再来週には出張もあるのでと伝えた。
麻酔が施され治療が終わった。「危惧していたより奥まで達していませんでしたね。じゃ、一旦ゆすごう」と言って先生は別の患者へ移っていった。自動でぬるい水が紙コップに注入される機械から紙コップを取り上げ、うがいをした。再び椅子に座り直す動作が数年歳を重ねたように重い。タイムスリップしたか、宇宙から帰還して重力を全身で受け止め直した飛行士のようだ。

まだ顎の付け根あたりに鈍痛があるので頬を掌でさする。「まだ痛みますか?」と衛生師さんが聞き、「はい。ず〜んと」と答える。衛生師さんが先生へそれを伝え、もう一度口内を見る。「上にも虫歯があるんですよ。それが影響している可能性も考えられる。麻酔しますね」と治療が再始動する。麻酔が打たれる。今度は上の歯。午前でも満席の忙しい院内は一瞬の隙間でも先生を席から外させる。

「どうですか、痛みは消えましたか?」と、少しの間を置いて衛生師さんが尋ねる。「まだ鈍痛が残ってます」衛生士さんが席を立つ。有線放送を薄くかけ続けているクラッシック音楽が天井のあちこちに埋め込まれたスピーカーから小さく流れてくる。ここは源泉掛け流しの名湯の湯船なのだ。檜の湯船の縁に後頭部をもたげ、足先を水中にだらりと伸ばしている。ガラス窓は気温差で曇ってしまい外は見えない。後ろの洗い場で誰かが水圧の強いシャワーや蛇口を押している音がする。

まだ残っている鈍痛がすぐさま現実に引き戻す。先生が再び帰ってくる。お帰りなさい先生。お昼の時間はあるんですか、毎回忙しそうです。「やっぱり、原因は下なんだな。上の麻酔で痛みが消えないってことはですね、親知らずの神経の方に虫歯の影響が届いてしまっているのかも知れません。ちょっともう一度口を開けて」再び麻酔の注射が打たれる。今回は先ほど治療した親知らずの周りだ。注射器を強く握る先生の手が震えている。強く力を入れて注入するためなのだろうが、その震え方は怒りのそれと似ている。目のすぐ下で恐ろしい震えが再び。


「どうですか?」と衛生士さん。「楽になってきました。」「せっかく削って、治療していただいたばかりなんだけど、抜いた方がいいかもって先生がおっしゃってます。神経までの治療は器具が入りにくくて・・」衛生士さん。「わかります。そうですよね。じゃあそうしてください。」席を立つ衛生士さん。別の患者のところにいる先生の横へ移動し、何かを伝えている。先生が別の患者に処置をしながら返事をする。戻ってくる衛生士さん。「それじゃ、これから抜歯をしますので準備します。もう少しゆっくりしていてください。」そう言って彼女はトレーの上に様々な追加器具を置きながら仕事を進める。直視しなくても、触れ合う金属の音で普段とは異なる器具だと知ることができる。


「はい、もう少し開けられるかな?」四本目の麻酔が打たれた後に力強い先生の手がこれまでの治療とは異なる器具を口へ突っ込む。グラグラと左右に揺らされる先生の腕。天井で白く光る蛍光灯を見る。その端にとても小さな水色に輝く一点がある。それを頼りにする。そこだけを見つめる。謎の水色のぼんやりした小さな点が拠り所として私自身を支えてくれる。サンペレグリーノのミネラルウォーターのラベルと同じ色をしたその水色の点が目の端に映る様々な行為とそのための特殊な灯り、アーム、吸引する音、拡大された先生の手、揺れる頭の視界を僅かに遠のかせ、平安のありかを伝える灯台として光っている。


「お持ちになりますか」と衛生士さんが尋ね、「はい」と答える。プラスチックの歯の形を模したしたケース。「お会計は〇〇〇〇円です。それとこちらが抜歯後の注意事項を書いたものですのでご一読ください。」
階段を降り、踊り場を背にして外へ出ると正午を三十分以上過ぎた太陽が強く照る。ちょうど青になった横断歩道へゆっくりと進む。白く塗られた横断歩道の塗装が眩しく光る。携帯電話をどこにしまったかと鞄をまさぐると、抗生物質の入った袋がかさかさと音を立てた。

.

.

蜘蛛と噂に耳貸さず9月1日

.

角の折れ曲がった濃いピンクの薄紙を読みかけの本に挟んである。朝食をほぼ終えて、カップに少し残ったコーヒーをちびちびと口に運びながら本を開く。コーヒーはお気に入りジャムの最後を食べる時のように少しずつやる。

書籍の間に挟まったピンクの真四角の薄紙を抜き、ソーサーの下へ角を差し込むように入れる。こうしておけば扇風機で飛ばない。昨日の続きを読む。この本は朝のものだ。ごくまれに夕方に数ページ捲ることはある。でも夜は決して読まない。特に理由はないけれど。

文章の中の言葉がきっかけとなって、読書が中断されることがある。その言葉がすんなりと入っていかないという場合もあるけれど、今ここで話しているのは、そのことではない。ある単語や短い文章を読んだことが別のスタートの空砲となる。顔は紙面から上げられ、窓の外を向く。緑の葉に風が当たる。動かぬ民家の壁が奥に見える。その向こうに電線が細く二本横断していて、数年前まで低層の団地があった方角へ伸びている。さらに奥はピントの合わない山の斜面が様々な木々の葉を震わせている。その辺りをぼんやりと眺める。頭の中では本の内容とも景色とも無関係な事柄がうねりながら展開している。大抵それは誰かの声や突然発せられた音で中断する。杖をつきながら坂と坂の間にある平らな横道を歩いていく老人の足音が静かに通り過ぎる。それとも仰々しいゴミ収集車の流す音楽。


パソコンのキーボードを叩いていると右の手のひらに蜘蛛がのった。くすぐったくて気が付いた。気付くと同時にそれは跳ねて、サイドテーブルのようにして置きっぱなしになっている丸椅子の上の分厚い写真集の上に飛び移った。この黒くて丸っこい跳ねる蜘蛛は以前から嫌いではないが、その昔、拡大鏡でまじまじと顔を覗き込むと、目の横にセンサーのような、別の眼球にも思える丸いものがついている。想像していたより顔は平面的。ガッツ石松さんをぱっちり二重にし、十四歳の疑いのない瞳を持たせたような愛くるしい可愛さがある。そんなことを知ればなおのこと殺める気もさらさら起きないというわけだ。窓の外で少し枯れ始めた緑の葉が揺れている。日除けに吊るしてある大きな布がはためき、コウモリの襲撃のような影を投げてよこす。今は時刻でいえば午睡の頃。しばらく前に賑やかだった夏休み明けの小学生は既に家に帰り着いていて、通りは車の音がする。蜘蛛の飛んだ向こうで横になっていた家人が、葉の擦れる音に寝返りをうつ。

.

.