温めた砂の上

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「今日がその日だ」と、一人気分の高まる朝がある。ここ数日の何をするにも適したような秋晴れに「今日はトルココーヒーを淹れてみよう」という内なる声が聞こえた。

 早速物置から古炭とトングを引っ張り出し、温めた砂を入れる銅のたらいとエスプレッソ用のコーヒーカップ、ハンドグランダーと豆、その他の細々した一式を鞄と籠に詰めて浜辺へ出発した。乗り気になった相方が危うく声をかけてくれなければ水を忘れるところだった。


 浜へついて火を起こし、炭を温め始める。しかし、その炭は古い備長炭。安いバーベキュー用のクズ炭や練炭ならまだしも、何年にも渡り放置した備長炭は水分をたっぷりと吸収し、なかなか着火しないことは分かっていた。それでも「今日がその日だ」という号令に従い、突貫工事的な準備で出かけて来たのだ。落ちている枝などを支えに少しずつ火を大きくしていくが、湿気った備長炭はそう簡単に中心部まで赤く燃え盛ってはくれない。


 先日数年ぶりに訪れた友人の営む焼き鳥屋さん。そこで二十年近くたった昔の旅話しに花が咲いた。彼とは何度か旅行をしたのだった。彼が炭火で焼いた焼き鳥も美味かったが、共に旅した思い出を肴にするのも悪くはなかった。

 翌日、彼が旅の写真を送ってくれた。当時はフィルムカメラで撮影したのだろうか、プリントした写真をスマホで写したピントの緩い思い出たちが何枚か送られてくる。それは二人でシチリアの小さな町に滞在した時のものだった。当時はもちろんスマホが存在しておらず、インターネットは持ち運びのできないものだった。前日の宿のパソコンか、街なかのインターネットカフェでウェブサイトをチェックし行き先のあれこれを調べた。実際のところ、どうやって旅程を組んだのかあまり覚えていないが、シチリアへ行く前はナポリに滞在していた。そこで「今日がその日だ」ではないが「明日がその日だ」と思い立った日に僕らは宿を引き払い港へ向かった。船の出発は夕方か夜だった。もう辺りは暗くなっていた。歴史あるナポリの街明かりが段々と遠ざかっていく。船という人間に適した速度を持つ乗り物は、思い出を反芻しながら去ることを人に許す。出立の寂しさと目的地への興奮が夕闇の染み渡る水面を交差していく。それぞれの余韻を抱き船は進む。遠くにはヴェスビオ山が見え、麓の街で小さな花火が上がっていた。闇が広がり僕らは二人部屋の船室へ降りていった。


 ナポリの街で買ってきたパンとトマトとチーズでパニーノを拵え夕食にしたような記憶がある。もしかしたら酒屋で仕入れた安ワインも飲んだかもしれない。友人はどうだったか分からないが、結構よく眠れたのではないか。翌朝、ナポリに積み上げてきた思い出を払拭するように、シチリアの古の港が目の前に現れた。明るい空と海に突き出た岬があり、何百年もそこで旅人を迎え入れてきた美しい港へと船が進んだ。穏やかな海の向こうに旧市街の石造りの街並みがゆっくりと近付いてくる。僕らは荷物を背負ったまま甲板のフェンスにしがみつき「今日がその日だ」とお互いを見合ったのだった。

 それから二十年経った日本の海岸で、スマホに送られてきた写真を思い出しながら僕はトルココーヒーまがいの苦い飲み物を啜った。相方は花粉で鼻をぐずぐずさせながらくしゃみをし、持ってきた綿のキッチンタオルを頬かぶりにしていた。夕暮れの太陽が水平線の少し上で眩しく光っていた。「頭がぼーっとしなければもっと美しく見えるだろうにねぇ」と相方は呟き、二杯目のコーヒーを直火で温め始めた。それじゃあトルコでもなんでもないじゃんよ、と言い合いながらちょっと寂しいそれを飲んだ。

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