何かを見たということは
何かを見なかったということの確定だと
文学世界の誰かが言っていると思います
もちろん、もっと単純に現実生活でもそれは顕著で
子供がどんなにぐずったところでドラえもんとキテレツ大百科は同時には見られないし
ナイトライダーと特攻野郎Aチームも同時には味わえない
左目でウィリアム・ブレイクの詩を読みながら右目でエミネムの歌詞カードを追いかけられたらどんなに楽しいだろうか
でも人間って信じられない機能を秘めているから
鍛えれば管楽器の奏者が息を吸いながら音を吐くことができるように
左右の目で、左右の脳で、別々の出来事を同時に処理できるような人がいるのかも知れない
しかし、そんな器用なことは誰にでも出来るわけではないし、
両目で見ても忘れて行くことだらけ、消えて行くことだらけ
ある意味それは気持ちが切り替わって楽に生きられる人体の機能なのだろうけれど、やはり一抹の寂しさはある
ということで、「今週見たもの」というのを作ってみた
描いてはみたのだけれど、描いている間に陽は落ちたり上がったりして
あっという間に時が過ぎたので、
「今週見た」どころか「数週間前に見た」ものになってしまった
まいっか、
工事中の内装の色味とか、季節外れの毛皮を嬉しそうに試着する人だとか、初めて観察したアマリリスの雄蕊と雌蕊のカーブだとか
そういった些細な何かを感じた瞬間というのはとっても愛しい
でも、あっという間に消えちゃう 目の前からも記憶からも
もし、専属カメラマンがいたら「今撮って!」「はい、今そこ撮って、雑草抜いた次の瞬間」「一切れのケーキが倒れたそこを!」などと叫びまくってシャッター切ってもらいたい
それは他愛ない日々の一コマだから他の人には価値も興味もなく
知られることも、見られることもない
当人にとってはどんな映画よりも傑作でアカデミー賞なのに
だから思い出したい
砂つぶになる前のわずかに許された時間の中で
あるNYの映像作家が「三脚立てている暇がない」という意味が本当に良くわかる
「人生は三脚を立てている間に過ぎて行く愛おしい時間の連続」なんて言ったらちょっと大袈裟だけれども
目や感情はそれを追いかけて一瞬記憶してくれる
部屋の片付けや引越しの押入れ整理が得てして進まないという現象はそこから来るのではないか
まるで別人の持ち物のようにして忘れていたささやかな過去の出来事が、古い服や懐かしい香り、一枚の古写真、ノートの走り書きや落書きなどによって呼び起こされ、やはり自分自身に間違いなく起こったことだったのだと再読み込みされて━━
なぜこんなことを書き始めたのか、すでに忘れ始めているところから考えれば
また時々こうして「今週見たもの」というのを残しておいても悪くはないような気がしてはいます。
「今週、何見ました?」
それとも
「何から目をそらせました?」
というような自分に向けて
ニシコさんの絵が好きでね。
今回はこの黄土色がいい、
今週はこの色のハンティングジャケットをしわを取る為に着ていたよ。
ちょっと暑かったけれど、クリーニングにだすと、つるんとしちゃうんでね。やせがまんです。
またよろしく。
かみやまさん。
ありがとうございます。
そう言えば、本当の洋服好きはクリーニング使わないと聞いたことあります。
また、こちらこそお頼み申します。