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そもそも気付くべきだったのだ、七十代も後半に入った女性が額と鼻の横に汗を流しながらランチの営業時間中であるにも関わらず、しどろもどろな受け答えで料理が提供できるかどうか定かではないことを伝えたその時に。
車で数時間走り、深い山が間近に迫ってきたあたりで昼食をとる事にした。木の子料理が主で、店名にも木の子とついているその店へ飛び込んだのは空腹も差し迫った遅めのランチタイムだった。先客が多いらしく、駐車場に空きがないので数分待った。第一陣は食べ終えている時間帯なので直ぐに空くだろうという予想はバッチリ当たり、続けざまに二台の車が出ていった。枠のない砂利の駐車場へ車を停めると引き戸を開けて入店した。
天井が高いこともあり、薄暗い店内は広く感じた。しばらく立っていると奥から七十代の後半と思われる女性が歩いてきた。何名ですか?と通常なら尋ねるところ「えぇと、ですね、少し今、できるかな。前の方のがね、重なって、お蕎麦も足りないか、えぇと」と、何が言いたいのか判然としない、しどろもどろな言葉が続いた。七十代後半のこのお母さんの額には粒状の汗が流れていた。
地元民なら遠慮もしただろうが、こちらは旅人でここを逃すとこの辺りで食事のできる場所を他に知らないし、体力的にも休息が必要だった。「大丈夫です。あるもので、時間がかかっても待てますが」と伝えると「そうですか、では、こちらで、すみません」と言って席へ通し、粒汗のお母さんは店の奥へ消えていった。
案内された席は厨房と壁一枚を挟んだ場所らしく食洗機の音やシンクで洗われる皿の音が響く。木の子雑炊を注文し、巨大な凧を吊るした天井やポスターの貼られた店内をしばらく眺めて過ごす。しかし、お母さんがお茶を持ってきてくれた以降は何もこない。他のお客さんにも同じように待っている様子が見える。厨房の中からは怒鳴り声一歩手前の声がする。「それ何、何やってんの、今それじゃないでしょ、あぁモゥ、おじさん自分のやってることなんでわかんないんだ。何してるか分かんなくなっちゃってる」と若い男の声が響く。しかしおじさんもただでは引き下がらず「うどんがダメになる!どこの、どれだ。またダメになるじゃないか」と大きな声。そして、仲裁に入る若女将の声はまだ冷静だ。「大丈夫だから、それ分けて、二つ別だから。今、器洗うから」高齢のお母さんだけがその家族喧嘩に声を発せず、寡黙にテーブルを少しずつ片付けている。
既に30分は待っただろうか、雑炊は運ばれてこない。厨房の口論は激化していき、暴力的に皿を洗う音や、勢いよく食洗機を閉める音、皿をガチャガチャとうるさく重ねる音が響いている。地元だったら退店しても良いくらいに騒がしい。が、こちらは旅の身だ。
40分の待ち時間を過ぎた頃、ついに、ついに、若女将が切れた。今さっきまで若旦那と叔父らしき人物の間でなんとか冷静を保ちながら、この場を乗り切ろうと仲裁に努めていた若女将が切れたのだった。「そんなこと言ってもしょうがないでしょ!ドン(音)、待ってるんだから今言わなくていいから!それ、こっちにちょうだい!ドン(音)」壁一枚挟んだ客席で震え上がる空腹の人間たち。お母さんは相変わらず少しずつ皿を下げ、額に汗を流しながら右往左往している。
「お母さーん!ちょっとこれ持っていって、テーブル九番さん」と若女将の声がかかる。
そしてついに、ついに、四五分待ったところでこちらにも木の子雑炊が運ばれてきたのだった。もちろんこれらの間に数組の客が会計を済ませて帰り、待っている先客に蕎麦や天ぷらが出もした。そして四五分待って届いた木の子雑炊の美味いこと。それには安心と安堵という調味料が入っていたのかもしれない。働く人の、そして肝を冷やし震えていた客人の。
その後旅人は無事宿に着き、散策に出て今度は熊の気配に足を震わせるのだがそれは次回に続く。
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