熊よけちん

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よくですね、熊を退治したり退去させたりする人の動画ってあるじゃないですか。結構見るんですよ。どうやって熊を引き下がらせるのか興味もあるし、熊の襲撃特性も知りたいもの。あと象の動画も好きです。鼻で吸った水を口へ運ぶ姿。怒って四輪駆動車を追いかける姿。一人のレンジャーがそんな威嚇する象を腕の動作と声だけで止める姿。普段目にすることの無いもの。

数日温泉街にいるんですけど、寂れ過ぎて商店もあまりないし、賑やかな観光スポットも興味ないのでぷらぷらと近場の山道を散歩に出たんです。宿でもらった簡易的な観光マップとカメラと水、マフラーで。

なぁなぁな地図に登山道(上級者向け)と書かれた散策路があり、その道の入り口を少しだけ覗いてみようと思ったのです。時間は午前十一時頃だったでしょうか。宿をでて裏手の車道を歩き、さらに一本裏へ入り人気のない道を進みます。すると、〇〇山と書かれた矢印が現れたのでそれに沿って進みました。

季節は十月の終わり。今年は夏の暑さが長く、紅葉のピークが少し後のばしになっているそうです。この辺りもまだピークではないものの、見頃と言っても差し支えのない美しく色付いた木々が茂っていました。

舗装されていた道路は十五分も歩けば苔が生え始め、三十分もすると土の山道になりました。気が付けば町の音は消えていて、すでに静寂が魔法のように辺りを取り囲んでいます。首を傾けて見上げるほど背の高い木々に葉が茂り、空が千切れたパズルのような輪郭。

深い森を写真に収めながら進んでいくと、何やら看板らしきものが目に入りました。行手に立ちはだかる異様な雰囲気。文字は人間が最後の宣言をしているように目立ちました。他に人工物の見当たらない場所で、煙無く燃える炎。

「熊出没注意。母熊は特に凶暴です!」

そしてさらに二枚目の看板。

「吸血性のヤマビルが生息しています」「この下に塩水を入れたものがあるので靴やズボンにスプレーしてください。」

注意はさらに促されます。

金属製の錆びた筒状の鐘がぶら下がっていて、「熊避けの鐘」とステッカーが貼ってあります。

急に静寂が一段と増したように感じたのは私だけでしょうか。そして不意に何かの鳴き声が響きました。「ぐぃぃ〜、ぐいぃ〜」という低い音。辺りを見回します。それは頭上から響いてきました。そんな時に限って虫が羽音を立てながら耳の横をかすめていくものです。びっくりしながらも「ぐぃぃ〜」という音の源を探すと、それは背の高い木々が風に揺れ擦れ合う音でした。真っ直ぐに二十メートルほど伸びた上空で樹木の肌が音を降らせる。

急に辺りが気になり始め、木々の向こう、森の深さに目を凝らします。シダ系の植物やまだ若い木の枝、苔むした岩、切り株、倒木の朽ちた先で芽を出す植物。視界の全て。

腰高くらいの長さを持つ適当な棒切れを拾いました。それを握りしめもう少し先へ進みます。しかしその前に看板下に設置されたヒル除けのスプレーを取り上げました。誰でも使用できるように握って噴出させる容器に塩水が入っているのです。しかし、あまり人が来ないのか空っぽでした。拾った棒をもう一度握り直し熊避けの鐘をひっぱたきました。すると、錆びた鐘が葬式の繊細な高音に似せ、ちーんと静かに鳴ったのでした。一段と怖くなりました。この深い森に対して、あまりにか細く不釣り合いな響き。山のことは何も知らないのです。

さらに、よく見渡せば体育座りした中学生が四、五人は余裕で入れそうな鉄柵の檻が置かれていて、「害獣駆除の罠、危険です」と張り紙がされているではないですか。檻の中にはリンゴが五、六個放り込まれ、真ん中には古い蜂の巣が黒ずんだ雑巾のようにぶら下がっています。一瞬、「熊に襲われたらその檻の中へ逃げる施設なんじゃ無いか」と思った自分が情けないです。

静まり返る森にシャッター音でも響かせようと何枚か写真を撮りますが、カメラも無音です。そういえばサイレントシャッターという設定にしているのでした。もう一度棒切れを握り直し、「相棒よ」と心の中で呟きながら先へ進みます。

坂道は一層急勾配になり、枯れ枝や小石が散乱しています。道を少し外れるとふかふかで、いかにもヒルがいそうな湿った腐葉土が山の絨毯として折り重なっています。坂を見上げると妄想の中に熊が駆け降りてきます。かれこれ小一時間は人と出会っていないし、叫んだところで助けも来ないでしょう。この木の棒が唯一の相棒。むしろ、金属のカメラを振り回した方がいいかもしれない、いやでもカメラ高いしな、などと考えながら少し登ります。

すると、左右に分岐した細道に出ました。目印で方角は分かりましたが、先はくねっていて視界は開けません。先程見た「熊」という文字に頭が占領されていて、道が一段と暗く思えます。少し雲も出て、実際に薄暗くなったこともありました。するとまた木々が擦れ合い、聴いたことのない鳴き声の鳥が、飛び立つ音を残し消えていきます。心が自分にそっと語りかけます。

「怖い。E.Tおうち帰る。」

坂道で上から熊が来たら巴投げする姿までは準備しましたが、下山することにしました。山のことは何も知らず、危険のサインを受信することも出来ない人間です。それに、軽い散歩が目的でした。短いとはいえ登山の入り口に入ってはいけないのだ。うん、うん、今すぐおうち帰ろう。

ほんの束の間、多分もうしばらく聞くことは出来ない自然の静寂と、そこに強く生きているものたちの別世界の声に耳を澄ませました。

ゆっくりと坂道を降りていくと、アスファルトの、見覚えのある通りに出ました。アスファルトはなんだか普段より力強く写り、味方のように感じました。相棒である棒切れと別れ、しばらく下っていきます。すると川を挟んだ向こうの通りを走る車音が聞こえてきました。気温が上がり上着を脱ぎました。

無事に宿へ帰り着くと、風呂へ行きました。「展望のメルヘン風呂」と書かれたラブホテルの入り口に似たゲートをくぐり、ロマンティックを表しているらしい悪趣味な欧州の模倣椅子を尻目に脱衣所へ入りました。浴室には誰もなく三面ガラス張り。湯船からは贅沢に温泉が溢れていました。山は紅葉を見せ、ガラスは少し汚れていました。久しぶりに湯船に浸かり足を伸ばしました。湯面から足の指を少しだけ出すとネッシーのように見えました。誰もいないので「ふぁー」と声に出し、薄汚れた窓越しに山をぼんやりと見つめました。

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