鵜と黒光りする肉体

湿気の少ない滑らかな風が青葉を揺らす七月。

盛夏のじめっとした日本の夏にはまだ少し早いそのころ海へ出かけた。

一番の理由は海岸の景色と散歩、そして少し歩いたあとで食べる屋外での昼食の為であった。もちろん人の少ない海を泳ぐことも気持よい。

 

その海岸は、近所に駐車場どころか車を路駐するようなスペースもなく、最寄りのバス停からも距離があり、最終的には薮の小道を抜けて到着するので実に人が少ない海岸。別の岸から海沿いに歩いて来たとしても整備された道があるわけではなく、木々に囲まれているので一段と隠れた感がある。

 

その海へ行きます。

 

 

 

家を出発する前に、相談が始まります。

「自転車でいこうか」

「いや、坂がきついから、むしろ徒歩の方がよいのでは」

「逆に隣の海岸まで車で行くと言うのはどうだろうか」

「むしろ、タクシーに乗って行くのはどうか」

「行きは君をおんぶして、帰りは君がだっこするというのはどうだろうか」

 

などと非現実的なアイディアを含めて幾つかの意見をかわした結果、少し離れた駐車場のある海岸まで車で行き、そこからは鞄を背負って海岸沿いに歩いて行くことにしました。

気分は冒険家なので、リュックを担いでいいざ出発。

途中で遭難し、空腹で絶命しないようにお菓子も持ちました。カラムーチョとラムネ。遭難は大げさ過ぎますが、新月が近く満潮に重なると帰路が水没する可能性があったからです。それより何より、そういう小物を揃える心持ちが探検隊の士気を高めます。

 

カラムーチョが鞄にある安心感。

 

戦時中に捕虜になった男が、「一番キツいのは看守にアンチョビを貰って食べたときだ」と読んだことがある。

喉の乾くキツさといったら・・

 

ということで、探検隊は麦茶も持参しました。

 

喉が渇いて七転八倒したくないですからね。口渇感、このことを我が家では「喝ウェル(カツウェル)」と呼んでいます。食物がなくて苦しむ状態を表した「飢える(カツエル)」からの派生語です。

国語界では認められていませんが、「口が渇くね〜」では物足りない必死な渇望感を表すときに使って下さい。

口渇とか喝感という記述向きの単語よりもインパクトがあり、状況を表していると自負しております。

「喉が渇いたなぁ〜」というのは緊迫感がありませんし、発言を終えるのに三〜四秒位必要です。一方「カツ・ウェル」は一秒かかりません。0.6秒で足ります。忙しい現代にもピッタリな単語です。

「なんか飲みたいねー」なんて悠長な単語に慣れてしまっていると、緊急時に生死を分けます。

 

喝がwell 、渇きマックスのことを一言で・・

 

「今オレ、超喝うぇる!!」

 

間違いないです。今はまだ間違った国語だとしてもやがて歴史が証明してくれるでしょう。

「ェル」はどちらかというとRではなくてLの発音です。

さぁ、みなさんもご一緒に「カツウェル」

 

さて、そんな中年カツウェル探検隊は岩を乗り越えながら15分位歩いて目的の海岸へ到着しました。平日の夏休み前だったので尚更海岸は貸し切り状態で誰もいません。

所々には潮風に耐性のある浜百合のような花が咲き、草と木々が周囲を取り囲む秘密のビーチとなっています。

小さな低木の枝葉が広がる素敵な一角を見つけて荷物を下ろします。岩には涼しい木陰が写りちょっとしたリゾート感。

 

 

 

 

ところが、人間界から隔離されたようなその場所にはなんと別の生き物がいたのです。

 

人間鵜

 

そうです、人間の姿をした鵜、もしくは鵜の姿をした人間が二百メートルほど向こうにいるではないですか。

 

しかも、立っている

 

草と砂浜の鬩ぎあう境に、まるで現世と前世との間のような位置に立っているのです。

黒光りした肉体を海の方へ、南の方へ、大太陽の方へむけてたった一人で。

 

 

 

 

 

我々は木陰に敷布を広げ、持参したサンドウィッチをかじり始めた。

バケットに目を落とし、チーズを味わい、ハムを堪能し、顔を上げると「立っている」。やはり同じ姿勢のまま立ち尽くした人間鵜が遠くに。

 

水中メガネを付けて泳ぐ、潜る、浮上する、顔を上げる、人間鵜が立っている。

 

絶妙な位置、絶妙な立ち方。

 

プロに違いない。

 

同じ光景を一度だけ見たことがあります。

プロの鵜が沖で水面からぽっこり浮き出た岩の上で、誰へ見てもらおうというのか翼を広げたまま太陽に一人対峙していたのであった。あの演技、あの自己愛、あのアピールがここにもある。

 

彼はひとりぼっちの海岸で草と砂の間に立ち、決して座ったり寝転んだりはせずに立っている。ずっと。

 

ヒグマが五百メートル先からでもヒグマだと分かるように、ペリカンの嘴が百羽の白鳥のなかでも突出しているように、その個性は黒光りしている。

 

先日の大雨のせいか、水中の植生がそれほど豊かではなく、透明度も飛び抜けて高くはなかったこともあり我々は早めに秘密の海岸を撤収することにした。カラムーチョとベビースターを疲れた身体に注入し、気持の良い木陰の岩場を後にした。

 

沖合には落ち着いた色の高級ボートが停泊し、ヨットが水面を滑っていく。

 

帰り道、時折振り返ると、そこにはまだ立ったままの彼が太陽と対話している姿があった。彼の辞書にはまだ「カツウェル」という単語は掲載されていないようだ。

 

 

 

 

 

 

 

お腹関数

弱いです。

腹です。

オナカです。

 

先日、朝から東京へ行きました。約束の時間は始発より二、三本遅いもので充分間に合う待ち合わせでした。

しかしながら、滅多に朝の電車などのらないので緊張します。

それですので、目覚ましよりも早く起床して準備を整えます。すると、出発時刻より早めに支度が済み微妙な時間の余裕ができます。

ということで、早めに家を出て始発に乗ります。

最低限乗らなければならない特急よりも二本早めの特急電車。

勿論、目的地には二十分少々早めに到着しました。

 

ここで、一旦私の朝食の話をしておかなければなりますまい。

 

混んでいそうな電車に乗る日の朝ごはんは、食べないに越したことはありません。しかし、遊びに行くわけでもなく多少とはいえ肉体を動かす予定があるので何かしらは食べておかなければもちません。

と、いうことで自分の体に一番近い食べ物を少量とります。

 

バナナとヨーグルト

 

多分、トルコの手前ブルガリアの山奥、そこに生息していた猿の遺伝子が入っているのだと思います。

 

逆に決して朝から食べてはいけないのが、魚定食とかベーコンと目玉焼きとトマトとレタス、リンゴ。もちろん牛丼なんてもっての他です。

そんなものを早朝の電車に乗る日に食べたら、目的地に到着できません。または何度も電車を降りる羽目になります。

 

お腹が弱いんです。

 

寝起きに間髪入れずに重い朝食を食べて電車に乗ると、ほとんど地獄です。腹痛に苦しみ打ち震えながら到着駅を目指す恐怖がわかるでしょうか。途中下車すれば遅刻は確定してしまう、なんとか次の駅までは耐えたいと思いながらひ汗を垂らして手摺に掴まるあの気持を。着きそうでつかない電車の最後のノロノロ運転の切迫を。通過駅の絶望を知っているでしょうか。

 

お腹が弱いんです。

 

しかし、私は決して忘れません。

朝の通勤ラッシュの人々にも同士がいることを。

 

 

 

 

 

あれは、学生時代の横浜駅だった。

襲い来る腹痛に悶えながら乗っていた京浜急行の電車で、上大岡〜横浜間のなんと長く果てしのない距離だったことか。横浜到着間際に車窓から見えてくるプールにどれだけ励まされ、あと少しと感じたことか。そして、その先で電車が詰まり見えているのに辿り着かない駅の目眩がするほどの切望感といったら。

そして、到着と同時に階段を半ば転がるようにして下り、JR連絡通路からトイレへ向かうマイ・シルクロード。

通勤と通学で朝から混雑しているJR横浜駅のトイレ。個室の前に一列にならんだ人々。

十人とは言わないが、五、六人は並んでいた。しかし、私の切迫具合は半端がなかった。耐え抜いた電車内から引き続きひ汗が全身を流れ、顔面は蒼白、目眩のようになった景色はピントもはっきり合わない。

そして、私はその列に並ばずに一気に最前列までよろけながら辿り着くと、

 

「お腹が痛くて、もう、だめなんです・・先に入れさせて下さい」

 

懇願だ。

 

先頭付近に並んでいた人達は、外見から緊急性を判断したのか、その願いを聞き入れ、快諾してくれた。ひとつの目的のもとに集った各自が、レベルは違えどもそれぞれに逼迫し、もよおし、急かされていたあの朝という時間にも関わらず。

あの時、あの小さな空間で、同じ苦しみを味わいながらも「先に行け」と道を譲ってくれたあの勇気ある人達の行動を私は一生忘れないだろう。

彼らが自民党であれ共産党であれ仏教であれ無神論者であれ、核燃料に賛成や反対のどちらであっても、また、男女の雇用機会に前向きか後ろ向きかといった主義や趣向、哲学などに関わらず、彼らを信じる。そしてこう呼ぶだろう。

 

同士達よ!

 

 

 

 

 

 

 

かの革命家のゲバラは切迫した状態で自身の喘息薬か弾丸のどちらかを選ばなければならなかった時、弾丸を選択した。

 

だが私は、一巻きのトイレットペーパーを選ぼう。

 

それは自らの主義主張の為ではなく、同じ苦しみを味わう同士たちが絶望の末に辿り着いたあの個室の中で、「紙が無い」という最後の一撃をくらって揚げる白旗の代わりに、その上空から投げ入れる掩護射撃の一巻きとしてである。

 

私は毎日が快便の人間を一切信用しない。

 

我々の同士は、歌の上手い下手や質の如何に関わらずライブ中に腹痛で個室へ駆け込む歌手である。生きにくい体質に生まれてしまったあらゆる切迫者である。

 

同士達よ!諦めるな、あと一駅だ。

 

 

久し振りに辿り着いた都会のど真ん中で、私は腹痛になった。

だが、これまでの経験から二本早く乗って来た特急のお陰で個室に籠ることが許された。

だから私は一般の人とは違う時間の電車に乗ることになるし、一人で電車に乗りたいと思っている。

 

あの、最後の一駅の遠さを今でも決して忘れることが出来ないからだ。

 

 

冷蔵庫でワルツを

盛夏。東京。

歩くというよりも、泳いでいる。

湿度、ほぼ、お湯。

涼しいビルを離れ、通りに出たはいいけれど、余りの暑さに一瞬で朦朧としてしまう。どこへ向かうつもりだったかも分からなくなり、真っ直ぐ歩く。

こんな日はどの飲食店も忙しくしているのではないかな。

ここまで暑いと、外を長歩きする気は起きないし、さっさと冷たい物を飲みたくなる。かといって店に入ったら入ったで、強烈な冷房で一気に身体が冷える。

そこへ調子にのってシェイクでも頼もうものなら、寒さ倍増。

 

あっというま

 

あんなに暑かったことを忘れて、窓から外を眺める。すると日傘をさした美女が涼し気に歩いていくではないですか。

きっと外の方が人間的で快適なんだ。

こんな強烈な空調と揚げ物とカレーだけの店はさっさと退店して屋外の空気を吸おうじゃないか。私は冷蔵庫できんきんに冷やされるハムではなくて人間なのだ。

コールドタンにされてたまりますか。

 

あたし、生きてます。

 

お会計をサクッと済ませ自動扉を過ぎるとそこは、

 

猛暑であった。

 

数ブロック進んだだけで身体は次の飲み物を要求してくる。

シェイクは甘かったからアイスコーヒーか辛口のジンジャエールを出す店にでも寄りませんか。

 

一体何しに東京へ来たんだ。ジュースの検証に来たわけじゃない。あぁ、でも都会は暑過ぎる。どこかへ座りたい、いや許されるならば横になりたい、誰か水で私をビショビショに濡らしてくれたまえ、人目なんて気にするものか東京を放水で溢れさせろ。

 

ふと駐車場の入り口に目をやると警備員さんがホースを握って立っている。

 

放水だ。放水するつもりなんだ。

 

そう思って暫し立ち止まる。

こちらを見る警備員さん。

ホースを見る私。

それは一瞬だったかもしれないが、二人にとっては朝青龍と白鵬が見合ったときのような未来的、宇宙的な一刻が流れていたのです。

 

しかし、結局水は撒かれなかった。放水は無かった。

 

「かけてください」の一言が言えなくて、夏。

 

ホースを丸めて警備にもどるおじさんの横顔は、パラダイスへの入国審査官のように冷たかった。

いかん、これでは負の連鎖だ。なにか楽しいことを思い出さなければ。。そうだ、今朝の始発電車でみた斜め職人を思いだそう。

空いている席に座らず、ドアーに恐ろしい角度で寄りかかったまま動かなかったあのストイックな斜め職人を。暑さに負けない悟りの境地を。

 

 

 

 

背負っている人は強い。家族を背負っていれば多少の体調不良など欠勤の理由にしない。子供を背負った母親は、両手に買い物袋を持って坂を一人登って行く。舞台を背負ったバレリーナは指の先っぽだけで立ち、二代目は一代目の重圧を背負っている。

そして斜め職人はいつ開くとも知れない扉を背負い、そこにたたずむ。

 

ついに私はひとつの真理にたどり着いた。

地下鉄の出入口は天国である。

冷え過ぎた冷気は温かい方へ、地上へと向かい、熱気は入れ替わってそこに対流する。

 

何かの入り口は何かの出口でもあったのだ。

 

これは真理なのか、それとも地下鉄の地上口から吹き付ける冷風に心を許しただけなのか。

ああ、人が来る、出入口に向かって。

私はまたしても追いやられていく。都会の隅の方へ。

 

横になりたい。水をビショビショに浴びて、塩を時折舐めながら。